宮沢賢治の2つの謎

自作の詩や童話を「心象スケッチ」と呼んだ真の目的と、日蓮宗(国柱会)への改宗の謎を考えます。

宮沢賢治 浮世絵と短歌の謎

宮沢賢治はたいへんな浮世絵好きでした。

大正5(1916)年8月17日、彼が20歳の夏、ドイツ語の勉強のため上京した際、親友の保阪嘉内に送った手紙の中に、次の2首の浮世絵に関する短歌があります。

 

歌まろの 乗合船の 絵の前に なんだあふれぬ 富士くらければ

ほそぼそと 波なす線は うすれ日の 富士のさびしさ うたひあるかな

 

翌月の手紙に上野の東京国立博物館に行ったことが記されていますので、おそらくそこで観た浮世絵版画を詠ったものでしょう。この絵は歌麿のどんな作品なのでしょうか。そして、なぜ富士を見て涙があふれたのでしょうか。3年後の大正8年の同じく保阪宛の手紙にこの時のことを回想して、「博物館にはいい加減に褪色した歌麿の三枚続き」があったとありました。以上より、歌麿作品で富士を背景として、乗合船が描かれた、3枚続きの作品をネットで探したら、次の画像が見つかりました。

 

喜多川歌麿一富士二鷹三茄子』3枚続き錦絵 出典:Library of Congress

東京国立博物館東博)の画像検索では見つかりませんでしたが、米国のLibrary of Congress(米国議会図書館)の公開画像にあったものです。東博の浮世絵コレクションの大半は、1943年に所蔵となった松方コレクション約8,000点とその後の収集品・寄贈品です。賢治が見た頃の館蔵品は少なかったと思われます。東博の所蔵品がアメリカに渡ったという情報はありませんので、上記作品は別の摺りなのでしょう。この作品は題名にある通り、徳川家康が好きだったといわれる富士と茄子と鷹を描いたおめでたい作品です。左の男は茄子をかごに入れて売り歩く行商人(棒手降りといいました)、中央のやや女性的な男は鷹匠、背景には雪をかぶった富士山が見えます。正月の夢に見ると良いことがあるということで、江戸時代の人々は枕元に飾って寝たのかもしれません。でも、絵の登場人物はあまりうれしそうな顔をしていません。米国議会図書館によれば、この絵は1798~1801年頃に描かれたとされています。この頃、歌麿寛政の改革に続く幕府の文化芸術弾圧により得意の美人大首絵を禁じられ、その後筆禍事件で手鎖40日の刑に処せられ、1806年に失意の内に亡くなったと伝わっています。歌麿にとっては、自分をいじめる江戸幕府を開いた家康の好きなものを描くのは、不本意だったかもしれません。賢治はそういった歌麿の境遇をこの絵から読み取り、富士を見て涙したのではないでしょうか。

20歳の賢治は東京を去るにあたって嘉内に送った手紙の中で、「博物館へ行って知り合いになった鉱物たちの広重の空や水とさよならして来ました」と記しています。「知り合いになった鉱物たち」とは、彼の詩にも登場する伯林青(プルシャンブルー、べるりんせい)のことで、江戸後期に長崎経由もたらされた鉱物由来の青の顔料です。安価で発色が良く褪色しにくい為、多くの浮世絵師が用いました。特に広重の青は西洋でももてはやされました。歌麿の時代にはなかったため、上記の絵でも褪色が進んで悲しげな雰囲気になったのかもしれません。

花巻の宮沢賢治記念館には、彼が残した歌麿と国貞の錦絵(多色摺り浮世絵版画)が展示されていました。案内パネルには右の絵は「豊国画」とありましたが、歌川国貞の誤りです。国貞の号「五渡亭(ごとてい)」が記されています。

賢治遺品の浮世絵 宮澤賢治記念館にて撮影

賢治は浮世絵の愛好家でしたが、いわゆるコレクターではなかったようで、買い求めた浮世絵を友人知人におしげもなくプレゼントしていたようです。ただ、若い頃の浮世絵購入は父親からすれば道楽に見えたようです。大正8年8月の保阪嘉内宛の手紙で、父親が「きさまは世間のこの苦しい中で農林の学校を出ながら何のざまだ。・・・錦絵なんかを折角ひねくり回すとは不届千万」と毎日のように言っていると述べています。ただ、賢治の家にはもともと浮世絵があったようです。江戸時代以来の旧家では、土蔵に浮世絵を保存していた例が多く、賢治の妹シゲの回想録には浮世絵を貼った枕屏風が土蔵の中にあったと記されています。賢治が骨董商に騙されたふりをして粗悪な浮世絵を自分のコレクションと交換し、骨董商の心を読んで楽しんでいたとの記述があります。家族から見れば愚かな行為と見えたようですが、その後の童話の登場人物の心理描写に活かしたに違いありません。亡くなる少し前にも、「浮世絵広告文」(1931年7月)、「浮世絵版画の話」 ( 1932~1933秋頃)といった、確かな浮世絵の見識を示す文章も残しています。

賢治が書いた詩歌の形式は、短歌(13~25歳)、口語詩(25~32歳)、文語詩(32~37歳)と、ほぼ年代順に変化しています。その内彼が「心象スケッチ」と呼んだのは口語詩と、童話だけでした。中学生の頃「日記を書くように、毎晩、短歌を作っていました」と親類の関登久也は記しています。文語詩は彼の若すぎる晩年に、末妹のクニに「なっても(何もかも)駄目でも、これがあるもや」と語ったと伝わる彼の人生の総決算でした。この、詩形式の変遷にも、彼の心象スケッチが何を目指したのかという謎を解く鍵があると考えています。

賢治がたびたび訪れて浮世絵を鑑賞した、ジョサイア・コンドル設計の東京国立博物館本館は、大正12(1923)年の関東大震災で倒壊してしまいました。現在の本館は昭和12年に再建されたもので、賢治は見ていません。その代わり、賢治も訪れたはずの、明治42(1909)年に開館し現在も残る、片山東熊設計の表敬館の写真をご紹介してブログを終わります。

東京国立博物館 表敬館

参考文献

岩田シゲ『屋根の上が好きな兄と私』蒼丘書林

宮沢賢治全集3,9,10』ちくま文庫

『図説 宮澤賢治ちくま学芸文庫 他