先日、文京区にある菊坂に言ってきました。大正10(1921)年、25歳の宮沢賢治はこの坂の近くの民家の2階に、約半年間住んでいました。その期間の出来事が、彼の生涯に決定的な転機をもたらしました。菊坂は、本郷3丁目の交差点近くから北西に下り、言問通りに至る600mほどの通りです。周辺の当時の地名は本郷区菊坂町でしたが、今は文京区本郷4丁目と5丁目が菊坂を挟んでいます。
大正10(1921)年1月23日、家業の質屋の手伝いをしていた賢治は、突如家出をして上京します。前年から父との信仰をめぐる対立で悶々としていた賢治は、この日衝動的に家を飛び出したのです。いとこに宛てた手紙によると、同日4時半ごろ棚の上の日蓮の本が背中に落ちてきたので、「さあもう今だ」と思い立って5時12分の汽車に飛び乗ったとあります。この時から、彼の生涯の転機となる激動の年が始まりました。翌朝、夜行列車が上野に着くと、その足で鶯谷の国柱会本部(日蓮宗の在家団体)を訪ね、同会の幹部高知尾智耀(たかちお ちよう)に次のように切り出します。
「私は昨年ご入会を許されました岩手県の宮沢と申すものでございますが今度家の帰正を願うために俄かにこちらに参りました。どうか下足番でもビラ張りでも何でも致しますからこちらでお使いくださいますまいか。」
これに対し高知尾の応対は、「今は人を募集していないから住むところを決めて出直すように」という冷たいものでした。賢治が言った「家の帰正」がかなわないとは、父母が浄土真宗から日蓮宗への改宗をしてくれないということです。これが家出の理由だったのですが、高知尾の答えは「全体父母というものはなかなか改宗できないものです」という素っ気ないものでした。
賢治は父の知人の小林六太郎方に身を寄せた後、翌日本郷菊坂町の稲垣方の2階に下宿します。その家は菊坂の中ほどを左に下る十数段の階段の先に、菊坂と並行して走る小道にありました。そこに次のパネルがありました。
パネルには、賢治の旧居は「右手建物の2階中央付近です」とありますが、その当時の建物はありません。私は以前本郷に住んでいたことがあるのですが、地元の人はこの小道を「下道(したみち)」と呼んでいました。その下道の写真が次の画像です。
また、賢治の下宿から100mほどの所に、明治時代に創業し2015年に廃業した「菊水湯」という銭湯がありました。跡地はマンションになり、今は写真の通り鬼瓦のみ残っています。賢治は2月24日付の父政次郎宛ての手紙に、「私は変わりなく衛生にも折角注意して夜はいつも十時前に寝みますしお湯にも度々参ります・・・」と記しています。「お湯」というのは「菊水湯」のことでしょう。病弱な息子を心配する父の手紙に対する返信の一節です。この親子は、対立しながら生涯お互いをいたわり合っていました。
菊坂に戻ってしばらく下っていくと、右手に明治時代からある質屋の建物が残っています。この近くに住んでいた樋口一葉が通った質屋で、一部改修されているようですがかつての面影を残しており、今は文京区が管理しています。賢治は質屋という家業を嫌っていましたが、この店を見てどう思ったでしょう。質屋は、当時の貧しい人々に小口金融を提供した重要な職業です。その家業を嫌う賢治に、父政次郎はきっと悲しい思いをしたことと思います。
大正10年の賢治の行動をまとめると、おおよそ次の通りとなります。
1月 23日 家出
同 24日 上野に着き、国柱会本部へ行く。小林六太郎方に身を寄せる。
同 25日 本郷菊坂に下宿。
同 26日 東大前の小さな出版社で筆耕の仕事を見つける。
2月 高知尾から文芸により仏教の教えを広めるよう勧められ、猛烈な勢いで童話を書き始める。
4月上旬 父が上京し共に関西を旅行。(父は日蓮も親鸞も学んだ比叡山に連れて行き、改宗しなくても法華経を学ぶことはできると諭したのではないでしょうか。)
7月 18日 上野の図書館で保阪嘉内と訣別。(前々回のブログ参照)
8月中旬 妹トシ病気の電報を受取り、トランクいっぱいの原稿を持って帰郷。
9月 これまで読んだ短歌を清書して一冊にまとめ、これ以降詩作に転じる。
12月 3日 稗貫郡立稗貫農学校教諭となる。
大正10年、賢治は家出をし、国柱会に出入りし、父と比叡山に行き、親友と訣別し、ジョバンニのようなアルバイトをし、トランク一杯の童話の原稿を書き、短歌をやめて詩作を始め、農学校の先生になったのです。
国柱会の高知尾は賢治の死後、生前冷たく接したことを悔いていたと伝わっています。しかし、そのおかげで、賢治の日蓮宗に対する熱狂はその後やや鎮まったようです。それよりも、彼が賢治に仏教文学の創作を勧めたことは、その後の賢治に大きな影響を与えました。賢治も晩年、あの「雨ニモマケズ」を書きつけた手帳に、「高知尾師ノ奨メニヨリ 法華文学ノ創作 名ヲアラハサズ、報ヲウケズ、貢高(くこう)ノ心ヲ離レ」と記しています。そして、大正10年が終わると、あの童話集『注文の多い料理店』や心象スケッチ『春と修羅』を生み出す、充実した農学校教諭としての4年間が始まります。
参考文献
『年譜 宮沢賢治伝』堀尾青史 中公文庫 他