宮沢賢治の2つの謎

自作の詩や童話を「心象スケッチ」と呼んだ真の目的と、日蓮宗(国柱会)への改宗の謎を考えます。

『心象スケッチ 春と修羅』

大正11(1922)年1月、宮沢賢治は2年後に『心象スケッチ 春と修羅』として自費出版する口語詩を書き始めます。同年4月8日の日付が記され、詩集の題名ともなった「春と修羅」は、次のような詩句により始められます。

 

  心象のはいいろはがねから

  あけびのつるはくもにからまり

  のばらのやぶや腐食の湿地

  いちめんの諂曲模様

  (正午の管楽よりもしげく

   琥珀のかけらがそそぐとき)

  いかりのにがさまた青さ

  四月の気層の光の底を

  唾し はぎしりしゆききする

  おれはひとりの修羅なのだ

  (風景はなみだにゆすれ)

 

私は、詩は素直に読み、詩人の心と読み手の心が響きあえばそれで良いのだと考えています。しかし、この詩からは心の中に何かざらざらとした得体のしれないものが広がるのを感じ、なぜそう感じるのか考え込まざるをえません。初めて読んだ中学生の時、4行目の「諂曲(てんごく)」という言葉の意味が分からず、次の行に「正午の管楽」とあるので平安時代の音楽の一種かなと思いました。改めて「諂曲」を辞書で引いてみると、「自分の意思をまげて、こびへつらうこと」とありました。また、「諂」という漢字には「よこしまなことをする」という意味もありました。この詩は心象スケッチですから、賢治は自分の心の中の光景を記しているのだと気づきました。春になると北国の凍てついた大地から生命が萌え上がり、植物でさえも、あけびの蔓のようにからみ他の植物を利用し押しのけて生きて行こうとします。賢治自身、父の質屋という職業を卑しみながら、そこからの収入で生きてきました。家出青年が農学校の教師になれたのも、彼が「財閥」と呼ぶ宮澤一族の力と信用によるところもあったかもしれません。親友だった保阪嘉内を無理に折伏国柱会に入れようとして断られ、二人とも傷つきました。思い通りに行かないことを唾棄し、歯ぎしりし、怒ったこともあったのでしょう。そこから自分が修羅であるという自覚が生まれたのでしょうか。

 

修羅とは阿修羅のことですが、賢治の座右の書である島地大等の『漢和対照 妙法蓮華経』には、阿修羅について「山中、又は大海の底に居り、闘争を好み常に諸天と戦う悪神なり」という解説があります。しかし、阿修羅はその後仏教に帰依し、興福寺の国宝「阿修羅像」のように他の諸天とともに仏教を守護する眷属となりました。以前ご紹介した「仏涅槃図」でも、釈迦の足元で死を悲しむ姿が描かれるのが定番となっています。

宮沢賢治記念館には、次のような展示品がありました。

中央に南無妙法蓮華経と大きく書かれた日蓮宗の本尊「十界曼荼羅」の前に、興福寺の阿修羅像のミニチュアが立っています。父や母の浄土真宗を離れて、自分の心の中の諂曲模様を見つめながら日蓮宗に帰依する賢治の姿を表しているのだろうと感じました。阿修羅は仏教に帰依しても六道輪廻の中の修羅道から抜け出すことも、戦う神であることを辞めるわけにもいきません。日蓮は『観心本尊抄』という著作の中で、「瞋(いか)るは地獄、貧(むさぼ)るは餓鬼、痴(おろ)かは畜生、諂曲は修羅、喜ぶは天、平らかなるは人」と記し、一人の人間の中に輪廻転生する六道(地獄道、餓鬼道、畜生道修羅道、人道、天道)の全てがあるとしています。賢治が自己を修羅と規定した時、この日蓮の言葉が頭にあったことは間違いないでしょう。

 

自分自身を「日本第一の行者」「日本第一の大人」と誇らしく称した日蓮に対し、親鸞は自分のことを愚禿(ぐとく)と呼んでいました。そして、『愚禿抄』という著作の中で、「愚禿が心は、うちは愚にして外は賢なり」と記しています。つまり、「私(親鸞)は外見上は賢く見えるが、その中身は煩悩にまみれ愚かである」と言っているのです。親鸞が自己を愚禿と規定したように、賢治も自分を修羅と規定しました。賢治が聖人であるか否かと言った議論は不毛ですが、親鸞同様自分の心の闇を見つめ続けた人であったことは確かです。それは悪人や凡人にはできないことです。彼は16歳の頃父親宛の手紙(書簡No.5)に「歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と記しています。後に日蓮主義を標榜する国柱会に入信しましたが、感性的には親鸞に近い立場を維持したように思えます。

 

春と修羅」の中ほどには次のような詩句があります。

 

     ああかがやきの四月の底を

    はぎしり燃えてゆききする

   おれはひとりの修羅なのだ

   (玉髄の雲がながれて

    どこで啼くその春の鳥)

   日輪青くかげろへば

    修羅は樹林に交響し

     陥りくらむ天の椀から 

      黒い木の群落が延び

       その枝はかなしくしげり

      すべて二重の風景を

     喪神の森のこずえから

    ひらめいてとびたつからす

 

多くの詩や童話で賢治は岩手の自然を美しく表現しましたが、彼の心象の投映がそこに重く苦しい世界をも現出させ、彼には「すべて二重の風景」として見えたのでしょう。この詩には、題名の横に(mental sketch modified)とあります。同様の副題を付されたのは「青い槍の葉」と「原体剣舞連」だけです。3つの作品は趣を異にするものですが、単なる心象スケッチではなく、心に浮かんだ光景を再構成したものという点は共通するように思えます。また、『春と修羅』の序(1924年1月20日)には「これらは二十二箇月の/過去とかんずる方角から/紙と鉱質インクを連ね」とありますが、最初に掲載された詩「屈折率」の日付は1922年1月6日であり、24か月前になってしまいます。詩「春と修羅」(1922年4月8日)はおよそ22か月前の日付になっており、この詩から彼の口語詩は本格的に始まったという自覚があったのでしょう。生前出版した唯一の詩集の表題としたこの詩には、特別の意味が込められていたのです。

 

春と修羅」の終わりは以下のようになっています。

 

  けらをまとひおれを見るその農夫

  ほんとうにおれが見えるのか

  まばゆい気圏の海の底に

  (かなしみは青々ふかく)

  ZYPRESSEN しづかにゆすれ

  鳥はまた青ぞらを截る

  (まことのことばはここになく

   修羅の涙はつちにふる)

 

  あたらしくそらに息つけば

  ほの白く肺はちぢまり

  (このからだそらのみぢんにちらばれ)

  いてふのこずゑまたひかり

  ZYPRESSENいよいよ黒く

  雲の火ばなは降りそそぐ

 

賢治は、農夫、すなわち他人には自分が修羅であることはわからないのではと思い、「まことのことばはここになく」という語で言語の限界を嘆きます。青空に向かって大きく呼吸をすれば肺が縮こまり、病弱な肉体の限界を感じるのでしょうか。そうした自分に対し、春のイチョウやZYPRESSEN(糸杉)はいよいよ繁り、雲の間からは日の光が火花のように降り注ぐのです。

 

稗貫郡立農学校は1923(大正12)年4月1日に郡制廃止に伴い県立花巻農学校となり、若葉町の新校舎に移転しました。1969年、更に花巻空港のそばに移転したため現在は公園(「ぎんどろ公園」)となり、「風の又三郎」のモニュメントが建っています。その外れに、賢治の同僚の教員で特別親しかった堀籠文之進の筆による碑がありましたので、写真を撮って来ました。

 

 

ちなみに、賢治は『春と修羅』にある「小岩井農場」の、出版時に削除したパート5(第五綴)に堀籠のことをこう書いています。

 

「堀籠さんは温和しい人なんだ。/あのまっすぐないゝ魂を/おれは始終おどしてばかり居る。/烈しい白びかりのやうなものを/どしゃどしゃ投げつけてばかり居る。/こっちにそんな考えはない/まるっきり反対なんだが/いつでも結局さう云うことになる。/私がよくしようと思ふこと/それがみんなあの人には/つらいことになってゐるらしい」(『春と修羅異稿。「小岩井農場 先駆形B」より)

 

好きな友達をからかい過ぎて、反省している子供のような詩です。「心象スケッチ」という方法を採ると、こういうつぶやきも出てくるということです。彼の詩法の秘密が垣間見えるような気がします。

 

参考文献

『日本の思想4 日蓮筑摩書房

宮沢賢治 心象の宇宙論』大塚常樹 朝文社

宮沢賢治全集1.9』ちくま文庫