宮沢賢治の2つの謎

自作の詩や童話を「心象スケッチ」と呼んだ真の目的と、日蓮宗(国柱会)への改宗の謎を考えます。

島地大等と大乗起信論

宮沢賢治は1911(明治44)年8月、宮沢一族が中心となって毎年行っていた夏期講習会で、島地大等(しまじだいとう、1875~1927)による「大乗起信論」の講話を聴いています。

大沢温泉には賢治も泊まった200年前の建物が残っています

大等はこのとき36歳、後に東京帝国大学等でインド哲学を教える新進気鋭の仏教学者で、盛岡の願教寺の住職でした。賢治は15歳、13歳の妹トシも参加していたことでしょう。彼女が「自省録」のなかで「大乗の菩提即煩悩の世界に憧憬と理想」と記していることを以前紹介しましたが、この「大乗」は「大乗起信論」のことだと思われます。

賢治はその後、1914(大正3)年に大等が編集した『漢和対照妙法蓮華経』に出会います。父の政次郎が友人から贈られたものを、賢治が読んだのでしょう。全集の年譜には「異常な感動を受け…生涯の信仰をここに定める」と記されています。そして、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に進学してから、大等が願教寺で8月の早朝(5時~7時)に行っていた仏教講話会に参加しています。聴講者が300から400名もあった人気の講話会だったようです。その情景を賢治が詠んだのが次の短歌です。

本堂の

高座に島地大等の

ひとみに映る

黄なる薄明

8月の早朝の日の出の空が、本堂の奥に座る大等の瞳に映ったのでしょうか。

願教寺は盛岡市北山一丁目にあり、賢治が通った農林学校から1.5㎞ほどのところにあります。その頃の本堂は1909(大正13)年に火災で焼けてしまい、現在の本堂は翌年再建されたものです。

現在の願教寺

ちなみに農学校の本館は現在も岩手大学上田キャンパスに残っており、賢治関係の資料も展示されています。

岩手大学農学部 農業教育資料館(重要文化財

安山岩でできた、賢治のモニュメントも建っていました。

賢治は父宛の手紙に、前回紹介した怪しげな静座法の指導者佐々木電眼を、「島津(ママ)大等師あたりとも交際致しずいぶん確実なる人物」と紹介しており、父子ともに大等を尊敬していたのでしょう。ところが、その後賢治は父や大等の属する浄土真宗から離れ、田中智学の国柱会日蓮宗の在家団体)へと改宗することになります。法華経日蓮宗だけでなく、もともと天台宗における根本経典であり、その天台教学の権威である大等に身近に接していたのですから、法華経を学ぶだけならわざわざ国柱会に改宗しなくても良かったはずです。しかし、浄土真宗が主に個人の心の救済を重んじるのに対し、日蓮の思想は現実の社会をあるべき理想社会に変革しようという傾向を強く持っています。田中智学は既存の日蓮宗がその日蓮の思想から離れていることから、宗門改革を図り日蓮主義を標榜した人物です。大等は「明治宗教史」という著書の中で、維新後の廃仏毀釈や寺請制度の廃止により危機に陥った仏教界に現れた両思想について、次のように述べています。

この重大なる危機に当たりて、仏教会より顕れた、新信仰が二つある。一は、精神主義であって、他は、日蓮主義である。前者は、明治三十年、清沢満之の唱ふるところであって、後者は、明治三十四年、高山樗牛の唱ふるところであった*1この二個の信念は、明治宗教史に顕はれた、もっとも重要な、主義信念であって、当代に於ける・・・代表的思想である。

賢治は、父政次郎のように浄土真宗の「精神主義」に傾倒し、仏教を心の糧として現実社会と折り合いをつけていこうとする生き方に反発していました。「日蓮主義」については国粋主義的な傾向を持つためか最初は嫌悪感を持っていたようですが、社会変革をめざす姿勢にやがて惹かれていったようです。

一方大等は、浄土真宗本願寺派西本願寺)の僧侶のためか「日蓮主義」とも、清沢満之真宗大谷派東本願寺)から起こった「精神主義」とも距離を置いていたようで、自らは「生々(せいせい)主義」という独自の主義を唱え、次のように述べています。

自他ともに生き生かさるる道を私は生々主義ともうします。・・・。これを社会の上に見るも、隣人互いに相生き相生かすの道であり小作人と地主、労働者と資本家、凡て互いに相生き相生かすを理想とするものである。商人と估客、先生と学生、利害の相関するものは勿論、相反するものに至るまで、相等しく生き相生かすの道である。

「生々主義」を大等が賢治らに説いたかどうかはわかりませんが、後年小作人たちの結成した労農党のシンパになる賢治には、何とも煮え切れないきれいごとの思想と思えたことでしょう。賢治はやがて大等との関係を断ち、1920(大正9)年国柱会入会前後からは題目を唱えて花巻の街を練り歩いたり、父を折伏しようとしたりして日蓮主義者として行動し、翌年には家出をして東京の国柱会で布教活動に参加するに至りました。

しかし、花巻に帰ってから、1922(大正11)年に書き始めた『心象スケッチ 春と修羅』には日蓮主義のにおいがあまり感じられないのです。梅原猛も『地獄の思想』の中で「賢治の思想は、教えの父、日蓮より、教えの祖父、最澄の思想に近いのではないかと思う。賢治には日蓮のような予言者的獅子吼はないし、あの排他的な法華経信仰はない。賢治は、修羅の世界への凝視と利他の思想の悲しさにおいて、教えの祖父、最澄の直接の後継者であるようにみえる」と記しています。『春と修羅』の最後に書かれた「序」には、梅原の言うように最澄の天台思想が感じられるとともに、天台と深い関係にある「大乗起信論」の思想が強く感じられます。次回はその「序」について、大乗起信論を参考に読んでみたいと思っています。

賢治は晩年、と言っても1930(昭和5)年34歳の頃、表紙に「文語詩篇」と自ら書いたノートに「八月 島地大等 白百合の花 海軍少佐」と記しています。前のページに「1911」とありますので、1911(明治44)年に大沢温泉で聴いた大乗起信論の講話を思い出していたのでしょう。そのころ大等は、1927(昭和2)年、51歳ですでに亡くなっていました。賢治にとって大等は生涯忘れられない人物の一人だったのでしょう。

ところで、大等は1902(明治35)年、浄土真宗本願寺派法主大谷光瑞が率いた大谷探検隊の一員として、インドや中国の仏教史蹟を調査してきました。そのとき探検隊が西域から持ち帰った遺物が、東京国立博物館にありますので先日撮影してきました。

有翼人物像 3~4世紀 土製造彩色 中国、ミーラン第5寺址

衆人奏楽図 10~11世紀 土壁彩色 中国、ベゼクリク石窟 

賢治には、「雁の童子」「インドラの網」「マグノリアの木」といった西域を題材とした童話があります。遺物の絵からは、賢治の童話が聞こえてくるような気がします。大等から、大谷探検隊の話しを聴いたことがあったのかもしれませんね。

 

参考文献・出典

島地大等『生々主義の提唱』慈悲の光社(国立国会図書館デジタルコレクション)

同「明治仏教思想史」『明治宗教文学集㈠』筑摩書房

【新】校本宮澤賢治全集第十六(下)年譜篇 筑摩書房

宮沢賢治全集3,10』ちくま文庫

梅原猛『地獄の思想 日本精神の一系譜』(中公新書)

 

 

 

 

 

*1:日蓮主義」の名付けの親は智学であったが、世に広めたのは樗牛だった。大等は智学を嫌ってあえてこう書いたのかもしれない。

メーテルリンクと交霊術

春と修羅』が出版された際に、賢治によって削除された「青森挽歌 三」という作品に、以下のような一節があります。最愛の妹トシが死んだ翌月、雪の降る花巻の街を歩いていた賢治は、トシの幻影を見たのです。

 

その藍いろの夕方の雪のけむりの中で

黒いマントの女の人に遭った。

帽巾に目はかくれ

白い顎ときれいな歯

私の方にちょっとわらったやうにさへ見えた。

(それはもちろん風と雪との屈折率の関係だ。)

私は危なく叫んだのだ。

(何だ、うな、死んだなんて

いゝ位のごと云って

今ごろ此処ら歩てるな。)

又たしかに私はさう叫んだにちがひない。

たゞあんな烈しい吹雪の中だから

その声は風にとられ

私は風の中に分散してかけた。

雪の街のイメージ(奈良井宿にて撮影)

熱心な仏教徒として輪廻転生を信じる賢治は、トシの魂が死後もどこかにいて自分に信号を送ってくると考えていました。「青森挽歌」の中で、「なぜ通信が許されないのか/許されてゐる そして私のうけとつた通信は/母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ」と書いています。トシからの通信は、夢のように不確かではかないものだったようです。

トシは生前、祖父への手紙の中で死後の魂について懸命に考えていました。死の2年前彼女が書いた『自省録』の中にメーテルリンクの引用があるため、彼の『死後は如何』(栗原古城訳 玄黄社 1916年)を読んでいたといわれています。この本は国立国会図書館デジタルコレクションで読めますし、2004年にも『死後の存続』という書名で新たに翻訳出版されています。原題は「La Mort(死)」という単純なものです。メーテルリンクは、現在では『青い鳥』という童話風の戯曲の作家としてしか知らない人がほとんどでしょうが、1911年にノーベル文学賞を取った大作家であり、思想家としても有名だったようです。トシは日本女子大学の創設者である成瀬仁蔵の講義で学んだと思われます。

しかし、この『死後は如何』というのはちょっと不思議な本です。死について哲学的に論じるだけでなく、霊媒による交霊術を積極的に取り上げているのです。欧米では、1800年代後半から交霊術を科学的に取り上げようとする活動が盛り上がり、1882年にケンブリッジ大学の教授たちを中心に「心霊現象研究会(The Society for Psychical Research)」が設立され現在も活動を続けています。歴代会長にはウィリアム・ジェームズ、アンリ・ベルクソンがおり、会員にはカール・ユングコナン・ドイルまで名を連ねていました。

メーテルリンクはジェームズと一緒に交霊術を行い、何とジェームズの死後霊媒を通じその霊を呼び出したことを『死後は如何』で記しています。トシが、そしておそらくは賢治も読んだであろう『死後は如何』の翻訳者である栗原古城は夏目漱石の弟子であり、前回取り上げたヘッケルの『宇宙の謎』も翻訳していました。国立国会図書館デジタルコレクションにある『宇宙の謎』(玄黄社、大正6年)の巻末には『死後は如何』の広告が掲載されていました。(ちなみに『死後は如何』の巻末には『宇宙の謎』の広告がありました。)

国立国会図書館デジタルコレクションより https://dl.ndl.go.jp/pid/1244309 

「将来の世界を支配するものは心霊の学也」とおどろおどろしいキャプションが付いています。しかし、その他の広告ではトルストイセネカ、エマーソン、「志那絵画史」といった固い内容の本が載っているので、玄黄社は「とんでも本」を出す出版社ではなかったようです。

日本でも明治41(1908)年に京都で人文書院の創設者渡邊藤交により創設された「日本心霊学会」を始めとして、心霊関係の団体がいくつも誕生しました。賢治やトシが生きた大正時代は、欧米も日本も心霊ブームだったのです。霊能者を使った千里眼実験で有名な、東大教授(後に休職)福来友吉も活躍していました。心霊研究と関係して流行したのが催眠術です。賢治自身、盛岡中学校時代、催眠術を使った静座法を指導する佐々木電眼という人物に心酔し、家に連れて来ています。このとき、電眼の催眠術でトシはすぐに催眠状態になりましたが、父政次郎は「いつまで経っても平気で笑っていたので、遂に電眼はあきらめて、雑煮餅を十数杯平らげて、山猫博士のように退散した」と、賢治の弟清六が『兄のトランク』の中で紹介しています。

ウィリアム・ジェームズは夏目漱石西田幾多郎らに大きな影響を与えた心理学者・哲学者で、賢治も「林学生」(『春と修羅 第二集』)という詩の中にその名を記しています。賢治はまた、「宗谷挽歌」(『春と修羅 補遺』)にメーテルリンクの作品の登場人物タンタジールの名を記していますし、ヘッケルについても前回述べたように「青森挽歌」に記しています。賢治の生きた時代、心霊研究や交霊術は現代のスピリチュアリズム以上に、文化人や若者たちの間で真剣に取り上げられていたようです。

最愛の妹トシを失いその魂の行方を探ることが、『春と修羅』後半の大きなテーマになっています。そこには、心霊研究とともに仏教の中有(ちゅうう)の思想が入り込んでいます。

中有とは「前世での死の瞬間から次の生存を得るまでの間の生存」のことで、「その期間は7日、49日、無限定などいくつもの説がある(『岩波仏教辞典』)」とされており、7日ごとに法要を営み四十九日を追善法要とする今日の葬儀の習慣のもとになっています。中国仏教では更に死者の次の生を定める審判を司る十人の王を定めています。有名な閻魔大王は35日目の審判を司る冥界の王の一人です。次の画像は東京国立博物館にある十王図の中の一つ、一周忌を担当する都市王(トシオウ)です。

「十王像(都市王)」室町時代・15世紀 絹本着色 東京国立博物館にて撮影

都市王勢至菩薩の化身とされ、1年間中有をさまよった魂に転生先を定める役割を担っています。トシの死から1年が過ぎたころ、『春と修羅』も最後の作品「冬と銀河ステーション(1923.12.10)」で幕を閉じます。妹の死という個人的な体験を、心象スケッチを紡ぐことにより深めていった賢治は、その翌月『心象スケッチ 春と修羅』の「序」を書くことにより普遍的な体験として昇華することになります。

そのことを示す言葉が、出版されなかった『春と修羅 第二集』の「この森をとおりぬければ」という作品に残されています。

 

鳥は雨よりしげくなき

わたくしは死んだ妹の声を

林のはてからきく

  ・・・・それはもうそうでなくても

      誰でも同じことだから

      また新しく考え直すこともない・・・・

 

妹の死を自らの思想を深める糧とした賢治は、心象スケッチの目的である「或る心理学的な仕事」の実現に向けて、さらに苦難の歩みを進めていきます。

 

参考文献と出典

メーテルリンク『死後の存続』山崎剛訳 (株)めるくまーる

『「日本心霊学」研究』栗田英彦編 人文書院

宮沢賢治全集Ⅰ』ちくま文庫

「青森挽歌」 魂のゆくえ

宮沢賢治の「青森挽歌」は、次のような言葉で始まります。

こんなやみよののはらのなかをゆくときは

客車のまどはみんな水族館の窓になる

   (乾いたでんしんばしらの列が

    せはしく遷つてゐるらしい

    きしやは銀河系の玲瓏レンズ

    巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)

最近の水族館では、巨大な水槽や透明なチューブの中を魚やイルカが泳いでいますが、昔の水族館は小さな水槽が並んでいるだけだったように記憶しています。そんな昔風の⦆水族館を探して、先日井の頭自然文化園の水生物園に行って撮ったのが次の写真です。確かに客車の窓のように見え、しばらく立っていると銀河鉄道に乗っているような気がして来ました。

賢治は、新校本全集の年譜によれば、1923(大正12)年7月31日花巻駅発21時59分の夜行列車に乗り、青森・北海道経由樺太に向けて出発しました。農学校の教え子の就職を盛岡中学の先輩に頼みに行くのが目的でしたが、妹トシの死後のゆくえを問う傷心旅行でもありました。8月12日に花巻に戻るまでの日付のある作品のうち、5篇を『春と修羅』に載せ、「オホーツク挽歌」という章にまとめています。「青森挽歌」は全篇252行の長く難解な詩ですが、賢治の思想をたどるうえで欠かせない作品です。彼の魂の叫びと悶えを、じかに感じられる心象スケッチです。

この作品が難解な理由の一つは、異なる時間や人格が交錯していることではないでしょうか。近年の脳科学者の分離脳の研究や精神医学の世界では、人間の心の中には多様な人格が潜んでいて、正常な状態ではそれらは統合されて一つの人格を形成していると言われています。賢治はあえてその統合を開放し、彼の目的とした「心理学的な仕事」の準備としての心象スケッチを行ったのでしょう。「青森挽歌」ではそれらの異なる人格が、カッコと二重カッコによって区分けされています。その例として、102行目から125行目までを引用します。

万象同帰のそのいみじい生物の名を

ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき

あいつは二へんうなづくやうに息をした

白い尖つたあごや頬がゆすれて

ちひさいときよくおどけたときにしたやうな

あんな偶然な顔つきにみえた

けれどもたしかにうなづいた

   ⦅ヘツケル博士!

    わたくしがそのありがたい証明の

    任にあたつてもよろしうございます ⦆

 仮睡硅酸の雲のなかから     

凍らすやうなあんな卑怯な叫び声は……   

 (宗谷海峡を越える晩は          

  わたくしは夜どほし甲板に立ち      

  あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり

  からだはけがれたねがひにみたし

  そしてわたくしはほんたうに挑戦しよう)

たしかにあのときはうなづいたのだ

そしてあんなにつぎのあさまで

胸がほとつてゐたくらゐだから

わたくしたちが死んだといつて泣いたあと

とし子はまだまだこの世かいのからだを感じ

ねつやいたみをはなれたほのかなねむりのなかで

ここでみるやうなゆめをみてゐたかもしれない

素直に順番に読んでいくと、何が何だか分からなくなります。実際、研究者によって解釈が分かれているようです。まずは、カッコと二重カッコの部分を飛ばして読んでみましょう。「万象同帰のそのいみじい生物の名」というのは、『宮沢賢治語彙辞典』によれば法華経を「万象同期の(あらゆる現象が寄って立つ)生命体としてとらえたもの」とありますので、前回述べたトシの臨終のときに賢治と次妹シゲがお題目(南無妙法蓮華経)をとなえたことに符合します。仮睡珪酸(かすいけいさん)というのは、同辞典によれば賢治の造語で「現実と非現実との混濁した」心象の状態を表しているとされており、深夜の夜行列車でうたたねをしながら考え込んでいる賢治と、臨終のトシの消えかかる意識の様子が重ね合わせて表現されているのでしょう。そして、死⦅に行くトシにお題目を無理強いするように叫んだことを、「あんな卑怯な叫び声」と悔やんだのでしょうか。またその叫びは、この詩の最後の方にある「⦅みんなむかしからのきょうだいなのだから / けっしてひとりをいのってはいけない⦆」という言葉にも反しています。しかし、そのお題目に応えてトシは確かにうなずいたのだと考えなおし、その魂は死んだ後もしばらく熱や痛みから解放されてその場にいたのだと夢想するのです。私の解釈の当否は別にして、一応文脈をたどることができました。

そのような賢治の意識の流れの中に、唐突に「ヘッケル博士!」に続く言葉が二重カッコで挿入されています。エルンスト・ヘッケル(1834~1919)はドイツの生物学者で、唯物論的な立場からキリスト教の霊魂不滅説を否定しました。そうであれば輪廻転生を信じる賢治たちとは正反対の様ですが、ことはそれほど単純ではないようです。彼の著作『宇宙の謎』(1906)は当時の世界的ベストセラーで、幸いなことに賢治も読んだと思われる大正6年の邦訳を、国立国会図書館のデジタルライブラリーで読むことができました。それによると、ヘッケルは個人の死後の魂の存在は否定するもののスピノザに傾倒し、科学と宗教を融合した汎神論的な思想「一元的宗教」を主張したことが分りました。ヘッケルが唯物論の立場から科学と宗教の統合をめざしたのに対し、賢治は唯心論の立場からヘッケルの思想を自分なりに消化し発展しようとしたのではないでしょうか。

次いで、カッコ書きされた「宗谷海峡を越える晩・・・」の部分は、この作品の日時より2日後の8月2日23時30分稚内発、翌日7時30分着の連絡船でのできごとです。そこで、ヘッケルの「そのありがたい証明の任に」、「わたくしはほんたうに挑戦しよう」と述べているのです。まさに時間と空間を超えた、4次元的な作品なのです。つまり、この作品においては、主として「二重カッコ」は幻聴、「カッコ」は後の時間の視点から客観的に自分を見つめる声として挿入されているようなのです。

その後も、賢治はトシが死後天上に行ったのか地獄に落ちたのかという思いを行き来します。前回ご紹介した祖父宛ての手紙に、生前のトシが自身について「このままに死ぬ時は地獄にしか行けず候」とあったことも念頭にあったのでしょう。トシの地獄落ちを示唆する幻聴もたびたび登場します。しかし、賢治は輪廻からの解脱を説く「倶舎論」(※)を思い起こし、「あいつはどこへ堕ちようと/もう無上道に属してゐる/力にみちてそこを進むものは/どの空間にでも勇んでとびこんで行くのだ」と幻聴を否定します。実際、トシは父や賢治の天上への転生の願いに反し「またひとにうまれてくる」と言い、「あたしはあたしでひとりいきます」(いずれも花巻方言の賢治自身の標準語訳)と告げた強い女性だったのです。

そして、「青森挽歌」は次のような詩句で結ばれます。 

 ⦅みんなむかしからのきやうだいなのだから 
    けつしてひとりをいのつてはいけない ⦆

ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます

最後の賢治の言葉に反し、『春と修羅』の挽歌群はトシ一人への思いが中心になっているのは明らかです。それではこれらは無駄な作品なのでしょうか。そうではないでしょう。賢治は、悩み、疑い、悶える人間の心を、限りなくいとおしく大事なものと考えていたのではないでしょうか。かつて保阪嘉内宛の手紙で「みな私の中に明滅する」(1919年8月)と表現しています。悟りに至らず明滅する心も、悟りに至った仏性と呼ばれる心も、同じ人間の一つの現れなのです。彼はトシを思う自分の心を心象スケッチすることにより、人間の心、及び人間という現象の謎を解き明かそうとしたのではないでしょうか。その思想は、やがて『春と修羅』の作品群の最後に書かれた「序」によって、整理され提示されたと考えます。

 

(※)「倶舎論」について、賢治が何を思って言及したのか正確にはわかりません。ただ、その冒頭に著者のヴァスバンドゥ(世親)は「あらゆるしかたで、全ての闇を消滅し、輪廻の泥から人々を救い出す、かのまことの師(仏陀)に敬礼して『アビダルマの庫』という論書をわたくしは説こう。」(世界の名著2 大乗仏典)と書いており、六道輪廻からの解脱が「倶舎論」の主要なテーマと思われます。それゆえ、トシの転生先をあれこれ詮索し悩むことをやめろと「倶舎論」は言っていると、賢治は考えたのだと思います。

 

 

参考文献・出典

宮沢賢治全集Ⅰ』ちくま文庫

宮澤賢治語彙辞典』原子朗 筑摩書房

『新稿本 宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜編』筑摩書房

宮澤賢治 修羅への旅』萩原昌好 朝文社 

宮沢賢治 心象の宇宙論』大塚常樹 朝文社

 

 

 

 

トシの死 もう一つのブラックボックス(2)

宮沢賢治の妹トシは、日本女子大学に入学したばかりの大正4(1915)年4月から5月にかけて、本郷に近角常観(ちかずみ じょうかん)を訪ねています。近角は清沢満之(きよざわ まんし)らとともに宗門改革運動を行った先進的な僧侶で、当時仏教界の内村鑑三と呼ばれるほど人気がありました。宮沢一族とは花巻での仏教講習会を通じて親交があり、3月に女学校での音楽教師とのゴシップ記事が地元の新聞に載ったことによる傷心のトシが、父政次郎の勧めにより訪ねたものと思われます。現在、その地には近角が建てた「求道会館」という建物が建っています。東京都指定有形文化財であり毎月1回公開されており、先日訪ねてきました。

 

内部はヨーロッパの教会堂のようですが、祭壇には六角堂が置かれ阿弥陀仏が安置されているという、不思議な空間でした。

近角は毎週日曜に講話会を開き、悩める人々の相談に乗っていました。トシもこの会館で悩みを告白したのかと思ったのですが、建物の前に置かれたパネルには大正4年11月に建設されたとありました。トシが訪ねた時には多分工事中だったと思われます。日曜講話会は、会館の奥にある近角の居宅か、求道学舎という寄宿舎で行われていたのでしょうか。

トシは日本女子大学の寮から日曜ごとに求道会館に通いましたが、歎異抄を中心に個人の精神的救済に重きを置く近角の思想は、納得がいかなかったようです。5月29日付けの近角宛の手紙には、面談のうえ食事までご馳走になったことへの丁重なお礼とともに、次のように記されています。

「あらゆる心配苦労を親にかけ、親を涙させるような事をして、三月の末、或る意味の敗北者として、故郷を離れ、のがれて参りました。どうしても、その恥を雪ぎます為に、又親師長の心配に報いる為にも私は、勉強して、成業の道に進まなければならないので御座います。」しかし、近角の講話を聴いても著書を読んでも、罪深い自分は救われることがなく、仏の存在も実感することができないという趣旨のことを述べています。結局トシは参加者名簿に名が残る5月30日を最後に、近角を訪ねることをやめたようです。賢治同様、父の浄土真宗精神主義)の影響下にあったトシが、初めてその宗教に疑問を持った瞬間だったのかもしれません。賢治は大正6年に、親友保阪嘉内に浄土真宗のバイブルである『真宗聖典』を贈っていますので、法華経は既に読んでいましたが、その頃はまだ浄土真宗を信仰していたと思われます。

その後トシは、日本女子大学創立者成瀬仁蔵の授業「実践倫理」を通して、西欧の宗教・哲学思想を学んでいきます。成瀬仁蔵というと、私はNHKの朝ドラ「あさが来た」で、瀬戸康史が演じた登場人物のモデルとして始めて知ったのですが、なかなか興味深い人物です。先日、日本女子大学に行ってきましたが、トシがいた時代の建物は成瀬記念講堂だけです。改葬され外観は当時の面影はあまり残っていないようですが、とりあえず写真を撮って来ました。

大正6年(5年とする説もある)の病気の祖父宛ての手紙で、トシは「私も大切なる死後の事一刻も早く心に決めるようにと思い居り候へど未だ確かな信心もなく、このままに死ぬ時は地獄にしか行けず候 何卒御一緒に信心をいただく様に致したく候」と書いており、その頃尚確たる信仰や哲学が持てぬ悩みを抱えていたのでした。そして、彼女は大学の最終学年であった大正7年12月に病気になり東大病院に入院します。その年、盛岡高等農学校を卒業し意に添わぬ家業の質屋を手伝いながら悶々としていた賢治は、母と共に看病のため上京します。トシの病気は、賢治の父宛ての書簡によれば「(悪性の)インフルエンザ、及び肺尖の浸潤」ということでした。この年から3年間、日本だけで40万人、世界では数千万人の死者が出た「スペイン風邪」が猛烈に流行していました。人口が現在の半分以下の時代ですから、新型コロナ禍の比ではないパンデミックでした。しかも、肺湿潤は当時初期の結核のことを指してもいたので、後にトシの命を奪う病気が既に始まっていた可能性が高いのです。幸い病状は賢治の献身的な看護もあって快方に向かい、3月3日には花巻に帰ることができました。休んでいた大学も、成績優秀ということで卒業できました。

注目すべきは、賢治がこの上京のとき、2月16日に初めて国柱会の田中智学の講演を聴いていることです。翌年12月に、国柱会入会を報告した保阪嘉内宛の手紙のなかに「田中先生の御演説はあなたの何分の一も聞いていません。唯二十五分丈昨年聞きました」と記されています。後に賢治による国柱会への誘いを拒否した嘉内の方が、元々は智学の演説を多く聴いていたのは何とも皮肉なことです。いずれにしても、病床のトシとの間では宗教や哲学のことも話し合われ、国柱会についても話題に上ったことでしょう。

以前触れたトシの「自省録」(大正9年2月9日)には、国柱会のことは書かれていません。しかし、大正9年秋には親族で賢治に続いて入会した関徳弥の家の2階で、賢治、トシ、シゲらが国柱会曼荼羅を前に法華経日蓮遺文を輪読していたことが、新校本宮澤賢治全集の年譜に記されています。いつの間にやらトシは国柱会の信仰に入っていたのです。賢治は「無声慟哭」の中で「信仰を一つにするたったひとりのみちづれのわたくし」と自分のことを称しています。大正4年に近角常観を訪ねて失望したトシが、賢治と共に信仰を求めて国柱会にたどり着いたとすれば、賢治の方がトシの信仰の「みちずれ」であったことに不思議はありません。

賢治とトシの浄土真宗から国柱会への改宗の経緯を年譜にしてみると、次のようになります。

 

明治45(1912)/11/3 賢治、「歎異抄」(浄土真宗)の信仰が固いことを父宛書簡に記す

大正4(1915)/4~5  トシ、浄土真宗の近角常観に失望

大正5(1916)/6/23    トシ、祖父宛て書簡で信仰の悩みを告白

大正6(1917)/5~12  賢治、保阪嘉内に浄土真宗の『真宗聖典』を贈る

大正7(1918)3/20頃  賢治、保阪嘉内に『漢和対照妙法蓮華経』を贈る

大正8(1919)2/16  賢治、田中智学(国柱会)の演説を聴く

大正9(1920)/2/9     トシ、「自省録」執筆

大正9(1920)秋   賢治、トシ、シゲら国柱会曼荼羅の前で法華経等輪読 

大正9(1920)/12/2     賢治、保阪嘉内に国柱会入会を報告

大正11(1922)11/27 トシ、死去。(賢治、シゲ、父に許されお題目を唱える)

大正11(1922)/12  賢治、国柱会に壱百円を入金し翌月トシの戒名を授与される

大正11(1923)春    父とシゲ、国柱会妙宗大霊廟にトシの分骨を納める

 

前回取り上げた小倉豊文の論文「二つのブラックボックス」では、賢治のブラックボックス大正6年の嘉内への『真宗聖典』贈与から、同7年の『漢和対照妙法蓮華経』贈与の間の改宗の経緯が不明ということを指していました。しかし、『漢和対照妙法蓮華経』の編著者が浄土真宗の学僧島地大等であること、及び法華経日蓮宗だけでなく親鸞が学んだ天台宗延暦寺)の根本経典でもあることから、浄土真宗を信じつつ法華経を読むことは不自然ではありません。現に、賢治の読んだ法華経は父から贈られたものでした。ですから、大正7年法華経贈与は改宗とまでは言えないと考えます。トシもまた、改宗の経緯は資料的に不明であり、もう一つのブラックボックスと言わざるをえません。ただ、彼女が近角常観の個人の心の救済を重んじる精神主義に失望し、法華経の社会的実践を重んじる日蓮主義の信仰に惹かれていき、賢治も同様の考えに傾いていったことは推測できます。戦後改宗した父政次郎のブラックボックスについては、いずれまた考えてみたいと思います。

最後に、本郷の求道会館の横にある、「浩々堂(こうこうどう)発祥の地」という記念碑の写真をご覧ください。

明治末、近角常観の外遊中に清沢満之らがこの地にあった屋敷を借り、そこに学生たちが寄宿して「浩々堂」という結社を作りました。満之はそこで弟子の暁烏敏(あけがらす はや)らとともに、明治34(1901)年に『精神会』という雑誌を創刊し、その第1号に「精神主義」という論文を寄稿しました。その同じ明治34年に田中智学は「日蓮主義」という言葉を造語し、国柱会(当時・立正安国会)の機関誌「妙宗」に発表しています。ともに明治末から大正、昭和初期にかけて、知識人や若者を中心に大きな影響を与えた思潮となりました。賢治やトシ、父の政次郎たちがこの二つの「主義」の間で葛藤したことを思いながら、この浩々堂の記念碑を見ていると、感慨深いものがありました。

 

参考文献・出典

『新稿本 宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜編』筑摩書房

「二つのブラックボックス」小倉豊文(『宮沢賢治の宗教世界』北辰堂)

宮沢賢治と近角常観」岩田文昭・碧海寿広 大阪教育大学紀要

「宮澤トシ書簡集」堀尾清史編(『ユリイカ 総特集宮澤賢治青土社

トシの死 もう一つのブラックボックス (1)

『心象スケッチ 春と修羅』の6番目の章「無声慟哭」は、妹トシの死を扱った5編の口語詩で構成されています。その内の3篇(「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」)にはトシの臨終の日、1922年11月27日の日付が記されており、最初の作品「永訣の朝」は次のように始まります。

けふのうちに

とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ

みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ

   (*あめゆじゆとてちてけんじや)

うすあかくいつそう陰惨な雲から

みぞれはびちよびちよふつてくる

   (あめゆじゆとてちてけんじや)

青い蓴菜のもやうのついた

これらふたつのかけた陶椀に

おまへがたべるあめゆきをとらうとして

わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに

このくらいみぞれのなかに飛びだした

   (あめゆじゆとてちてけんじや)

賢治の詩は仏教や科学の専門用語を使った表現があって難しかったり、ときにはシニカルであったりするのですが、臨終の日の3作品にはそのようなところは全くありません。ものすごく完成度が高く、最愛の妹の命が失われようとしていく現実に直面した、研ぎ澄まされた悲しみにあふれています。私たちも素直に賢治の心を追体験し感動すればそれで良いのですが、このブログの目的である「宮沢賢治の2つの謎」を解くためには、無粋ですが少し作品の裏側を探らなければなりません。そのカギは、「永訣の朝」でも効果的に使われているトシの言葉だと思います。彼女の言葉を、臨終の床に同席した妹シゲ、及び付添婦の細川キヨの証言(『宮沢賢治の肖像』所収)と突き合わせてみると、3作品はどうも時系列的に並んではいないようなのです。まず大きな一つの作品(「永訣の朝」の原形)が賢治の頭の中にあって、その中から「松の針」と「無声慟哭」が抜き出されたのではないかと私には思えます。101年前に戻り、そのことをトシの言葉を時間を追って再現し、確認してみましょう。

トシは、病状が悪化したため、それまで療養していた下根子桜の別宅(「雨ニモマケズ」の詩碑がある所)から、11月19日に豊沢町の実家に戻ります。次の写真が現在の実家跡です。建物は終戦の年の空襲により焼失したのですが、もとはこの写真の左の方向に大きな敷地があって、トシは母屋と廊下でつながった離れの部屋を病室としていたようです。

離れは古い建物で寒く、その様子を妹のシゲは次のように回想しています。

「赤くおこした炭火は火鉢に入れて、部屋の隅々においたって、天井は高いし空気が暖まるわけにはいきません。空気が動けばとし子姉さんはすぐにせき込むのです。少しでも空気が動くのを防ごうとかやを吊り、屏風を回してという具合でした。」

その日は賢治の詩にある通り朝からみぞれが降る日で、トシの脈拍が弱くなったため医者を呼ぶと、「命旦夕(夕方から明朝)に迫る」とのことでした。ですから、賢治はまさに「けふのうちに/とほくへいつてしまふ・・・」という緊迫した気持ちで妹を見守っていたのです。

「永訣の朝」では、まず「あめゆじゆとてちてけんじや(あめゆきとつてきてください、賢治や)」という言葉が効果的にリフレインされ、トシの最後の望みが賢治をせきたてます。妹が兄に「賢治や」と語りかけるのは、東京生まれの私には少し奇異に思われるのですが、これより以前二人の会話を聞いていたキヨは「(ときには)としさんの方が姉さんのように見えます」と証言しています。しっかり者で頭の良い2歳違いの妹は、二人だけの時は姉のように、あるいは双子のように賢治に接していたのかもしれません。シゲはこのとき一緒に雪を庭に取りに行ったと語っていますので、雪を椀に取って食べさせたことは実際にあったできごとです。次に「Ora Orade Shitori egumo」(あたしはあたしでひとりいきます)というトシの言葉が記されています。ローマ字で記されていることと、他の証言者による言及がないことから、二人だけの会話か、あるいは賢治がトシの様子から感じ取った言葉なのではないでしょうか。この言葉に呼応する賢治の言葉が、「松の針」に記されています。

ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ

ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか

わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ

泣いてわたくしにさう言つてくれ

ひとりで死んでいこうとするトシに、賢治は一緒に死んでほしいと言ってくれと願いますがトシの返事はなく、ただ妹の美しい頬を見つめるしかないのです。さらに、「無声慟哭」の中には次のようにあります。

わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき

おまへはじぶんにさだめられたみちを

ひとりさびしく往かうとするか

信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが

あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて

毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき

おまへはひとりどこへ行かうとするのだ

家の宗教ではない国柱会日蓮宗の在家団体)の信仰の「みちづれ」である賢治を置いて、トシは「私は私で一人で死んでいきますから」、賢治は賢治で自分の修羅の道を進んでくださいと言いたかったのではないでしょうか。

「無声慟哭」にはまた、トシと母イチの間の「おら おかないふうしてらべ/けふはほんとに立派だぢやい/それでもからだくさえがべ?/うんにや いつかう」という会話も記されています。

「永訣の朝」のトシの最後の言葉は、

「うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる」(またひとにうまれてくるときは、こんなにじぶんのことばかりで、くるしまないようにうまれてきます)

というものでしたが、これは作品の中には書かれていない父政次郎の次の言葉に応答したものです。シゲの証言によれば、

「病気ばかりしてずい分苦しかったナ。人だなんてこんなに苦しい事ばかりいっぱいでひどい所だ。今度は人になんか生まれないで、いいところに生まれてくれよナ」

というものでした。この世を穢土と見、浄土に生まれ変わることを願う政次郎の浄土信仰に対し、死んでいくトシの方は、もう一度人としていきたいという強い願いを持っていたようです。この世界こそ理想社会でなければならないという、日蓮宗が重んじる「娑婆即寂光土(浄土)」という思想によるのかもしれません。しかし、女学校時代の恋愛事件以来煩悶してきたトシに対し、安らかな死後の転生を願ったのは父だけでなく賢治も同じだったのでしょう。「永訣の朝」は次のように結ばれます。

おまへがたべるこのふたわんのゆきに

わたくしはいまこころからいのる

どうかこれが天上のアイスクリームになつて

おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに

わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

「天井のアイスクリーム」の行は、宮沢家所蔵本では賢治自身により「どうかこれが兜率の天の食に変って」と書き込まれています。兜率天弥勒菩薩が住む天上の世界のひとつです。賢治も父同様、病苦や人間関係で苦しんで24歳の若さで死にゆくトシが、六道輪廻の最上位にあたる天界に生まれ変わることを望んだのでしょう。「無声慟哭」にも賢治は、「どうかきれいな頬をして/あたらしく天にうまれてくれ」と記しています。

そして、トシの息がまさに絶えようとした時の様子を、シゲは次のように伝えています。

「私はほんとに、ほんとにと思いながら身をぎっちりと堅くしていたら、父が、『皆でお題目を唱えてすけてあげなさい』と言います。気がついたら、一生懸命高くお題目を続けていました。そして、とし子姉さんは亡くなったのです。」

お題目とは、「南無妙法蓮華経」と声に出して唱える日蓮宗の唱題のことです。宮沢家の信仰である浄土真宗の「南無阿弥陀仏」ととなえる「称名」ではなく、「題目」を唱えることを父は許したのです。これは、政次郎がトシの信仰を日蓮宗と認めたことを意味しています。事実、分骨されたトシの遺骨を国柱会の霊廟に、政次郎と届けたことを同行したシゲの証言を、以前このブログで紹介しました。

賢治の研究者で父の政次郎とも親交のあった小倉豊文に「二つのブラックボックス」という論文があります。賢治がいつ、どうして浄土真宗から国柱会に改宗したかがはっきりしないことが第1のブラックボックス。戦後政次郎が日蓮宗に改宗し、墓所浄土真宗の安浄寺から日蓮宗の身照寺に移した理由について聴きそびれたことを、第2のブラックボックスとしています。私は、その二つのブラックボックスに、トシの改宗が密接に関係していると思います。トシの改宗もまた記録や確たる証言が残っていないため、今回の副題にある「もう一つのブラックボックス」なのです。その内容については、次回改めて考えていくこととします。

 

最後に、身照寺にある宮沢家の墓所の写真をご覧ください。トシが亡くなった頃賢治が教師をしていた花巻農学校跡から、歩いて5分もかからないところにあります。以前、私が訪れた時には既にきれいな生花が飾られていました。花も持たずに来たことを、政次郎さん、賢治さん、トシさんにお詫びして、お参りしました。

 

参考文献・出典

宮沢賢治全集1』ちくま文庫

『新稿本 宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜編』筑摩書房

『屋根の上が好きな兄と私 宮沢賢治妹・岩田シゲ回想録』蒼丘書林

「二つのブラックボックス」小倉豊文(『宮沢賢治の宗教世界』北辰堂)

宮沢賢治の肖像』森荘已池 津軽書房

宮沢賢治の仏教思想』牧野静 法蔵館

 

 

「小岩井農場」 長大なつぶやき

先日、ずいぶん久しぶりに小岩井農場に行ってきました。盛岡駅でレンタカーを借り、繋温泉で一泊してから向かいました。田沢湖線小岩井駅から少し行った道の右側に、小岩井農場の標識がありました。

 

賢治もこの道を歩いて農場に向かったはずです。彼の記述によれば、当時は「火山灰のみち」だったようです。今から101年前の1922年5月21日、前回取り上げた「真空溶媒」から3日後のことです。『心象スケッチ 春と修羅』の中で一番長い、600行近い作品「小岩井農場」は次のような言葉で始まります。

 

わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた/そのために雲がぎらつとひかつたくらゐだ/けれどももつとはやいひとはある/化学の並川さんによく肖たひとだ/あのオリーブのせびろなどは/そつくりおとなしい農学士だ/さつき盛岡のていしやばでも/たしかにわたくしはさうおもつてゐた/このひとが砂糖水のなかの/つめたくあかるい待合室から/ひとあしでるとき……わたくしもでる

 

賢治は小岩井農場に行くために、汽車をすばやく降りました。すると、彼よりも早く降りて前を行く人がいて、盛岡高等農林学校時代の恩師の並川さんに似ていました。その人は身軽に客馬車に乗ります。駅から小岩井農場までは6km近くあります。賢治は更に鞍掛山のふもとを通って滝沢駅(現在はいわて銀河鉄道線の駅)に向かうつもりのため「これから5里もあるく」ので、馬車に一緒に乗ろうか乗るまいかと迷います。並川さんのモデルは、賢治の卒論の指導教員だった古川仲衛門教授とのことです。卒業後4年が経っており、その間に賢治は国柱会に入り、家出し、親友保阪嘉内と訣別し、今は小さな農学校の教師になっています。仕事で農場に向かう様子の並川さんこと古川教授とは、何となく話がしたくなかったのでしょう。(私たちもそういうこと、時々ありますよね。)40行目に至り彼はこうつぶやきます。

 

今日ならわたくしだつて/馬車に乗れないわけではない/(あいまいな思惟の蛍光/きつといつでもかうなのだ)/もう馬車が動いている/(これがじつにいゝことだ/どうしやうか考へてゐるひまに/それが過ぎて滅くなるといふこと) 

 

感情的な言葉を牽制するかのように、かっこ内に表記されたもう一人の自分の冷めた声が交錯します。やがて、小岩井農場の入口に到着します。

 

もう入口だ〔小岩井農場〕/ (いつものとほりだ)/混んだ野ばらやあけびのやぶ/〔もの売りきのことりお断り申し候〕/ (いつものとほりだ ぢき医院もある)/〔禁猟区〕/ ふん いつものとほりだ/小さな沢と青い木こだち/沢では水が暗くそして鈍つてゐる

 

残念ながら現代の小岩井農場は観光地化していて、テーマパークの入口の様でした。平日の朝でまだ閑散としていたため、それはそれで感慨深いものがありましたが・・・

その後も、彼は歩きながら「新開地風の飲食店」や、農耕用の「黒馬が二ひき汗でぬれ」ているのを見たり、山の風を感じたりするごとにつぶやきます。「真空溶媒」の「灰色の紳士」に似た「五月のいまごろ/黒いながいオーヴアを着た/医者らしいもの」に会ったりします。そのうちに地質年代名から名付けられたユリア(ジュラ紀)とペムペル(ペルム紀)という妖精のような子供たちを幻視したりし、現実の小岩井農場は異空間へと変わっていきます。

 

この長大な詩は、パート一からパート九まで区分されています。しかし、五、六と八は出版時に削除され、番号だけが記されています。全集にある異稿(先駆形B)では、五で前回も触れた「堀籠さん」との少し同性愛的な感情がつづられ、六では雨に降られ予定を変えて小岩井駅に戻ることにした経緯が述べられています。パート八は失われたようですが、もしそれらを加えたら900行くらいになったのでしょうか。そして、パート九に至りこの詩は次のように結ばれます。

 

この不可思議な大きな心象宙宇のなかで/もしも正しいねがひに燃えて/じぶんとひとと万象といつしよに/至上福祉にいたらうとする/それをある宗教情操とするならば/そのねがひから砕けまたは疲れ/じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする/この変態を恋愛といふ/そしてどこまでもその方向では/決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を/むりにもごまかし求め得ようとする/この傾向を性慾といふ/すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従つて/さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある/この命題は可逆的にもまた正しく/わたくしにはあんまり恐ろしいことだ/けれどもいくら恐ろしいといつても/それがほんたうならしかたない/さあはつきり眼をあいてたれにも見え/明確に物理学の法則にしたがふ/これら実在の現象のなかから/あたらしくまつすぐに起て/明るい雨がこんなにたのしくそそぐのに/馬車が行く 馬はぬれて黒い/ひとはくるまに立つて行く/もうけつしてさびしくはない/なんべんさびしくないと云つたとこで/またさびしくなるのはきまつてゐる/けれどもここはこれでいいのだ/すべてさびしさと悲傷とを焚いて/ひとは透明な軌道をすすむ/ラリツクス ラリツクス いよいよ青く/雲はますます縮れてひかり/わたくしはかつきりみちをまがる

 

とても哲学的で深遠な詩句です。解釈しようとすると、どんどん賢治の真意からそれていきそうです。ただ、理想と現実の両方が私たち生きる世界には存在し、それを受け入れ進んで行くしかないという、修羅としての賢治の決意を感じればそれで良いように私には思えます。「ラリックス」とはカラマツ(落葉松)のことです。でも「カラマツ カラマツ いよいよ青く」と詠ったのでは、「かっきりみちをまがる」ことはできませんね。ラリックスと叫び、かっきりと道を曲がり、彼は現実の世界に戻って行ったのです。

 

賢治の心象スケッチの形式には、2種類あるように思われます。ひとつはとめどなくあふれてくる言葉を書き留めたモノローグ風のもの、もう一つは心の中に投影された自然の表象をさっとスケッチしたような作品です。前者には、「真空溶媒」のように異空間での出来事を述べた幻想性の強い作品と、「小岩井農場」のように実際の出来事をベースに書き進めた作品があります。しかし、現実の歩行をベースにしながらも、彼の心の中には様々な幻視や想念が渦巻いてきて、それを心象スケッチとして自動記述していきます。そこには定型的な詩の形式も、ストーリーもなく、つぶやきと幻想と思索が交錯し、終わることのないような時間が持続していきます。我々はこの詩を読み、賢治の内心に交錯していたつぶやきを自分のものとすることにより、1933年に死んだこの詩人の、1922年の心象を追体験することとなります。私は何度もこの詩を読んでいると、前世で101年前の5月に小岩井農場を賢治の後から歩いたような気がしてきました。

 

今回小岩井農場を訪れた日は、朝のうちは曇っていたのですが、農場に着いた頃には岩手山が見えてきました。右の山すそにはなだらかな二つこぶの鞍掛山も見えました。

賢治には「岩手山」(1922.6.27)という、まさに心の中に投影された自然の表象をさっとスケッチした、すてきな作品があります。でも、よく読むと不思議な詩です。

 

そらの散乱反射のなかに

古ぼけて黒くゑぐるもの

ひかりの微塵系列の底に

きたなくしろく澱むもの

 

賢治が愛し、友や家族とともに何度も登った山なのですが、「古ぼけて黒」いとか、「きたなくしろく澱むもの」とけなしているのです。彼はなぜか世界を心象の中に取り込むと、水中のように表現することがあります。「小岩井農場」の冒頭にも、「砂糖水の中の/つめたく明るい待合室」という表現がありました。「青森挽歌」でも「こんなやみよののはらのなかをゆくときは/客車のまどはみんな水族館の窓になる」、「こんな車室いつぱいの液体のなかで」という記述があります。この「岩手山」という心象スケッチでは、巨大な岩手山を心の中の水槽に閉じ込め、愛するゆえにからかって見ているようなところがあります。そんなことを考えながら改めて雄大岩手山を見上げると、不思議に親しみを感じました。

 

小岩井農場の東側の上丸地区には、賢治の詩碑があります。でも、今回は熊が出たということで立ち入り禁止になっていました。今年は異常気象のせいか山のドングリが不作で、熊たちが冬眠前に里に出てきているようです。異常気象ばかりか、世界のあちこちでは戦争が起こり、熊も人間も生きにくい時代になりました。熊の出ない時期にまた来ることにして、小岩井農場をあとにしました。

 

参考文献・出典

宮沢賢治全集1』ちくま文庫

『定本 宮澤賢治語彙辞典』原子朗 筑摩書房

宮沢賢治の真実』今野勉 新潮文庫

『図説 宮沢賢治』上田哲他 河出書房新社

「真空溶媒」とシュルレアリスム

宮沢賢治の『春と修羅』には、彼が心象スケッチと呼んだ70編の口語詩が、8つのパートに分けておさめられています。前回ご紹介した「春と修羅」に続くパートに、「真空溶媒」というちょっとシュールな作品があります。本文248行という、「小岩井農場」「青森挽歌」に続く長大な作品です。この作品は内容が超現実的であるばかりでなく、シュルレアリスムの「自動記述(オートマティスム)」や「デペイズマン」に似た手法が用いられています。何人かの研究者が、賢治の心象スケッチ全般についてシュルレアリスムとの類似を指摘していますが、この作品からはそのことが特に感じられます。「自動記述」は、あらゆる先入観を排して自動的に文章を書くことにより、無意識の思考やイメージを表出させる手法です。シュルレアリスム創始者アンドレ・ブルトンは、フロイト精神分析から自動記述を思い立ったとしていますが、賢治も又フロイトに関心があったことを知人の森荘己池が『宮沢賢治の肖像』に書き残しています。ちなみに、ブルトンと賢治は1896年の同年に生まれ、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』は『春と修羅』と同じ1924年に出版されています。このことは、賢治がシュルレアリスムから直接の影響を受けていないことを示すと同時に、世界の文学や思想の動向と無縁でなかったことを示しています。天沢退二郎新潮文庫版『宮沢賢治詩集』の解説で、ジョイスプルーストブルトンといった例を挙げ「1920年代の思潮の渦の中で、賢治の心象スケッチの方法が誕生」したと述べています。花巻という地方都市にいながら、賢治は世界につながっていたのです、

彼が、まだ日本に伝わっていなかったシュルレアリスム的な手法を採用し心象スケッチを作成した理由を問うことは、このブログの目的である「心象スケッチ」の真の目的を追求する上で不可欠と考えます。

 

さて、作品を読んでいきましょう。何分長い作品ですので、大幅に省略し、改行は斜線で記すことにします。原文の味わいが損なわれることをご容赦ください。

副題にドイツ語で「Eine Phantasie im Morgen(朝の幻想)」とあり、次のように始まります。

融銅はまだ眩めかず / 白いハロウも燃えたたず

地平線ばかり明るくなつたり陰つたり / はんぶん溶けたり澱んだり

しきりにさつきからゆれてゐる

おれは新らしくてパリパリの / 銀杏なみきをくぐつてゆく

その一本の水平なえだに / りつぱな硝子のわかものが

もうたいてい三角にかはつて / そらをすきとほしてぶらさがつてゐる

けれどもこれはもちろん / そんなにふしぎなことでもない

 

太陽の光を科学者らしく「溶けた銅の赤い光」に例え、それがまだ輝かず、ハロー(光輪)も見えないまだ薄暗いイチョウ並木を、「おれ」は歩いていきます。すると、イチョウの木の枝に三角形をしたガラスの若者がぶら下がっています。シュルレアリスムの「デペイズマン」という手法は、「ある物を日常的な環境から異質の環境に転置し,その物から実用的性格を奪い,物体同士の奇異な出会いを現出させる。この方法により人々の感覚の深部に強い衝撃を与えること」(ブリタニカ国際百科事典より)であり、ダリやマグリットの絵画が思い浮かびます。イチョウの枝に「硝子の若者」がぶら下がっていることはまさに異質なものの出合いなのですが、賢治は「けれどもこれはもちろん そんなにふしぎなことでもない」と述べて、「真空溶媒」の怪しげな作品世界にいざないます。

賢治が銀杏の水平な枝に見た硝子の若者は、賢治自身の姿なのかもしれません 
上野公園の銀杏並木にて撮影

2マイルほども歩いてイチョウ並木を抜けていくと夜が明けていき、丸められた雲が「パラフィンの団子」になって青い空に静かに浮かんでいます。

むかふを鼻のあかい灰いろの紳士が / うまぐらゐあるまつ白な犬をつれて

あるいてゐることはじつに明らかだ

 (やあ こんにちは)/(いや いゝおてんきですな)

 (どちらへ ごさんぽですか / なるほど ふんふん ときにさくじつ

  ゾンネンタールが没くなつたさうですが / おききでしたか)

 (いゝえ ちつとも / ゾンネンタールと はてな

 (りんごが中つたのださうです)

 

「ゾンネンタール」については、ドイツ語に直訳して「太陽の谷」のこと、あるいはオーストリアの俳優の名前とする説がありますが、賢治も「ゾンネンタール はてな」と書いているのですから、あまり気にすることもないでしょう。

みろ その馬ぐらゐあつた白犬が / はるかのはるかのむかふへ遁げてしまつて

いまではやつと南京鼠のくらゐにしか見えない

 (あ わたくしの犬がにげました)/(追ひかけてもだめでせう)

 (いや あれは高価のです / おさへなくてはなりません/さよなら)

苹果の樹がむやみにふえた / おまけにのびた

おれなどは石炭紀の鱗木のしたの / ただいつぴきの蟻でしかない

 

鼻の赤い灰色の紳士と話していると馬のように大きな白犬が逃げ出し、南京鼠のように小さく見えるほど遠くに行ってしまい、紳士もまた犬を追いかけて行きます。すると、「おれ」もまた「一匹の蟻」の大きさまで縮小してしまい、しかもおよそ3億年前の石炭紀の、その石炭のもとになった今は存在しない鱗木(巨大なシダ植物)の下に立っています。賢治は「おれ」についても、心の中の対象として見ているのです。前回取り上げた「春と修羅」の「おれ」は賢治自身であり、「おれはひとりの修羅なのだ」と自己を定義していましたが、「真空溶媒」の「おれ」は、作品中には登場しない〈私〉が見た心の中の一人物なのです。『春と修羅』の70編の心象スケッチの中で、自分のことを「おれ」と一貫して表現しているのはこの2作品だけですが、両者の「おれ」は明らかに異なるのです。

やがて昼になり、朝にはパラフィンだった雲が燃えだし「リチウムの紅い焔」をあげ、草は赤茶けた褐藻類に変わり「こここそわびしい雲の焼け野原」という地獄のような風景に変わります。すると「どうなさいました 牧師さん」と声をかける人物が登場し、「わたくしは保安掛りです」と自己紹介します。彼には「おれ」が牧師に見えるのでしょう。有害な硫化水素や無水亜硫酸のガスが流れてきて「おれ」の意識が遠のくと、保安掛りが時計を盗もうとします。やがて雨が降ってきて有毒ガスは溶け、「おれ」は正気に戻ります。保安掛りをどなりつけると、彼は「ただ一かけの泥炭」になり、四角い背嚢だけが残ります。ガスが雨で流され、赤茶けた草は「葉緑素を恢復し」、穏やかな風景が戻ります。

虹彩はあはく変化はゆるやか / いまは一むらの軽い湯気になり

零下二千度の真空溶媒のなかに / すつととられて消えてしまふ

それどこでない おれのステツキは  / いつたいどこへ行つたのだ

上着もいつかなくなつてゐる / チヨツキはたつたいま消えて行つた

恐るべくかなしむべき真空溶媒は / こんどはおれに働きだした

 

ここで、ようやく「真空溶媒」という語が出てきました。真空は溶媒のように作用して「おれ」を含むすべてを溶かしこんでしまうものと認識されています。零下二千度という、本来ありえない温度が、全てを吸い込むブラックホールのような負の印象を強めています。この詩から7年後、病に倒れた賢治は死を意識して「疾中」という一群の詩を書きます。その中のひとつに、「からだは骨や血や肉や/それらは結局さまざまな分子で/幾十種かの原子の結合/原子は結局真空の一体/外界もまたしかり/……/われ死して真空に帰するや/ふたたびわれと感ずるや」と記します。自分も世界も真空から生まれ真空に帰するという思想で、宇宙は「真空のゆらぎ」から生じたと主張する現代の量子論に通じるものを感じます。

やがて、赤鼻の紳士が犬を連れて戻ってきます。犬の種類を尋ねると、北極犬であり馬のように乗れることがわかります。「おれ」は北極犬を借りて東へ歩き出し青い砂漠を旅行し、冒頭のイチョウ並木に戻って来ます。すべてが輪廻のように繰り返す予感を残して、この心象スケッチは終わります。

おれはたしかに / その北極犬のせなかにまたがり / 犬神のやうに東へ歩き出す

まばゆい緑のしばくさだ / おれたちの影は青い沙漠旅行

そしてそこはさつきの銀杏の並樹 / こんな華奢な水平な枝に

硝子のりつぱなわかものが / すつかり三角になつてぶらさがる

この作品には1922年5月18日の日付が記されています。農学校の教員になって半年がたち、妹トシが亡くなる半年前です。生徒や同僚たちと安定した教員生活を続けながら、盛んに詩や童話を書いていたころです。賢治はこの作品で、かねてより考えていた思想を実験的に展開しようとしたのではないでしょうか。

賢治には父宛の手紙の中で「戦争とか病気とか学校も家も山も雪もみな均しき一心の現象に御座候」(大正7年、書簡番号46)と書き、友人の佐々木又治には「本当ニコノ山ヤ川ハ夢カラウマレ、寧ロ夢トイフモノガ山ヤ川ナノデセウ」(同年、書簡番号54)と述べる唯心論的・独我論的な傾向がありました。それを更に発展させ、保阪嘉内には「やがて私共が一切の現象を自己の中に包蔵することができる様になったらその時こそは高く高く叫び立ち上がり、誤れる哲学やご都合次第の道徳を何の苦も無く破って行かうではありませんか」(同年、書簡番号50)と書き送っています。これは、後に森佐一(森荘己池の本名)に宛てた手紙で『春と修羅』は「歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画」したものであるという主張(大正14年、書簡番号200)につながります。心象スケッチは単に自分の心情を詠った抒情詩ではなく、自動記述によって世界を新たに捉え直し再創造しようとした試みだったのです。しかし、妹トシの挽歌群の一部、率直に言って「真空溶媒」よりはるかに感動的な「松の針」等は、上記の心象スケッチの有りようからははずれているように思われます。この点は、改めて考察したいと思います。

「真空溶媒」を典型とする心象スケッチが、自分の心に浮かんでくる様々な象を自動記述的に記述したものであるとすると、それは口語詩に留まることはありませんでした。賢治は『注文の多い料理店』の広告文の中で、「この童話集の一列は実に作者の心象スケッチの一部である」と、童話もまた心象スケッチであるとしています。イチョウの木にぶら下がる三角形の硝子の若者を含め複数の人物が交錯する「真空溶媒」は、口語詩と童話の中間領域にあって、両者に共通の心象スケッチの秘密を垣間見させてくれる作品です。でも、あまり微細に読み解こうとすることは、かえって深みにはまることになるような気がします。賢治自身、『注文の多い料理店』の序で「なんのことだか、わけのわからないところあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです」と告白しています。自動記述による心象スケッチは、著者さえ気づかぬ新たな世界を創造する可能性を秘めています。童話も小説も、更に広く芸術というものは、究極のところ論理的な言葉では説明出来ないことを表現しようとするものです。賢治のめざしたものも、まさにそのようなものだったと思います。

 

参考文献・出典

宮沢賢治全集1,2,9』ちくま文庫

宮沢賢治シュルレアリスム高橋世織 明治書院 

宮沢賢治 透明な軌道の上から』栗原敦 新宿書房

『新編 宮沢賢治詩集』天沢退二郎編 新潮文庫