「小岩井農場」 長大なつぶやき

先日、ずいぶん久しぶりに小岩井農場に行ってきました。盛岡駅でレンタカーを借り、繋温泉で一泊してから向かいました。田沢湖線小岩井駅から少し行った道の右側に、小岩井農場の標識がありました。

 

賢治もこの道を歩いて農場に向かったはずです。彼の記述によれば、当時は「火山灰のみち」だったようです。今から101年前の1922年5月21日、前回取り上げた「真空溶媒」から3日後のことです。『心象スケッチ 春と修羅』の中で一番長い、600行近い作品「小岩井農場」は次のような言葉で始まります。

 

わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた/そのために雲がぎらつとひかつたくらゐだ/けれどももつとはやいひとはある/化学の並川さんによく肖たひとだ/あのオリーブのせびろなどは/そつくりおとなしい農学士だ/さつき盛岡のていしやばでも/たしかにわたくしはさうおもつてゐた/このひとが砂糖水のなかの/つめたくあかるい待合室から/ひとあしでるとき……わたくしもでる

 

賢治は小岩井農場に行くために、汽車をすばやく降りました。すると、彼よりも早く降りて前を行く人がいて、盛岡高等農林学校時代の恩師の並川さんに似ていました。その人は身軽に客馬車に乗ります。駅から小岩井農場までは6km近くあります。賢治は更に鞍掛山のふもとを通って滝沢駅(現在はいわて銀河鉄道線の駅)に向かうつもりのため「これから5里もあるく」ので、馬車に一緒に乗ろうか乗るまいかと迷います。並川さんのモデルは、賢治の卒論の指導教員だった古川仲衛門教授とのことです。卒業後4年が経っており、その間に賢治は国柱会に入り、家出し、親友保阪嘉内と訣別し、今は小さな農学校の教師になっています。仕事で農場に向かう様子の並川さんこと古川教授とは、何となく話がしたくなかったのでしょう。(私たちもそういうこと、時々ありますよね。)40行目に至り彼はこうつぶやきます。

 

今日ならわたくしだつて/馬車に乗れないわけではない/(あいまいな思惟の蛍光/きつといつでもかうなのだ)/もう馬車が動いている/(これがじつにいゝことだ/どうしやうか考へてゐるひまに/それが過ぎて滅くなるといふこと) 

 

感情的な言葉を牽制するかのように、かっこ内に表記されたもう一人の自分の冷めた声が交錯します。やがて、小岩井農場の入口に到着します。

 

もう入口だ〔小岩井農場〕/ (いつものとほりだ)/混んだ野ばらやあけびのやぶ/〔もの売りきのことりお断り申し候〕/ (いつものとほりだ ぢき医院もある)/〔禁猟区〕/ ふん いつものとほりだ/小さな沢と青い木こだち/沢では水が暗くそして鈍つてゐる

 

残念ながら現代の小岩井農場は観光地化していて、テーマパークの入口の様でした。平日の朝でまだ閑散としていたため、それはそれで感慨深いものがありましたが・・・

その後も、彼は歩きながら「新開地風の飲食店」や、農耕用の「黒馬が二ひき汗でぬれ」ているのを見たり、山の風を感じたりするごとにつぶやきます。「真空溶媒」の「灰色の紳士」に似た「五月のいまごろ/黒いながいオーヴアを着た/医者らしいもの」に会ったりします。そのうちに地質年代名から名付けられたユリア(ジュラ紀)とペムペル(ペルム紀)という妖精のような子供たちを幻視したりし、現実の小岩井農場は異空間へと変わっていきます。

 

この長大な詩は、パート一からパート九まで区分されています。しかし、五、六と八は出版時に削除され、番号だけが記されています。全集にある異稿(先駆形B)では、五で前回も触れた「堀籠さん」との少し同性愛的な感情がつづられ、六では雨に降られ予定を変えて小岩井駅に戻ることにした経緯が述べられています。パート八は失われたようですが、もしそれらを加えたら900行くらいになったのでしょうか。そして、パート九に至りこの詩は次のように結ばれます。

 

この不可思議な大きな心象宙宇のなかで/もしも正しいねがひに燃えて/じぶんとひとと万象といつしよに/至上福祉にいたらうとする/それをある宗教情操とするならば/そのねがひから砕けまたは疲れ/じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする/この変態を恋愛といふ/そしてどこまでもその方向では/決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を/むりにもごまかし求め得ようとする/この傾向を性慾といふ/すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従つて/さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある/この命題は可逆的にもまた正しく/わたくしにはあんまり恐ろしいことだ/けれどもいくら恐ろしいといつても/それがほんたうならしかたない/さあはつきり眼をあいてたれにも見え/明確に物理学の法則にしたがふ/これら実在の現象のなかから/あたらしくまつすぐに起て/明るい雨がこんなにたのしくそそぐのに/馬車が行く 馬はぬれて黒い/ひとはくるまに立つて行く/もうけつしてさびしくはない/なんべんさびしくないと云つたとこで/またさびしくなるのはきまつてゐる/けれどもここはこれでいいのだ/すべてさびしさと悲傷とを焚いて/ひとは透明な軌道をすすむ/ラリツクス ラリツクス いよいよ青く/雲はますます縮れてひかり/わたくしはかつきりみちをまがる

 

とても哲学的で深遠な詩句です。解釈しようとすると、どんどん賢治の真意からそれていきそうです。ただ、理想と現実の両方が私たち生きる世界には存在し、それを受け入れ進んで行くしかないという、修羅としての賢治の決意を感じればそれで良いように私には思えます。「ラリックス」とはカラマツ(落葉松)のことです。でも「カラマツ カラマツ いよいよ青く」と詠ったのでは、「かっきりみちをまがる」ことはできませんね。ラリックスと叫び、かっきりと道を曲がり、彼は現実の世界に戻って行ったのです。

 

賢治の心象スケッチの形式には、2種類あるように思われます。ひとつはとめどなくあふれてくる言葉を書き留めたモノローグ風のもの、もう一つは心の中に投影された自然の表象をさっとスケッチしたような作品です。前者には、「真空溶媒」のように異空間での出来事を述べた幻想性の強い作品と、「小岩井農場」のように実際の出来事をベースに書き進めた作品があります。しかし、現実の歩行をベースにしながらも、彼の心の中には様々な幻視や想念が渦巻いてきて、それを心象スケッチとして自動記述していきます。そこには定型的な詩の形式も、ストーリーもなく、つぶやきと幻想と思索が交錯し、終わることのないような時間が持続していきます。我々はこの詩を読み、賢治の内心に交錯していたつぶやきを自分のものとすることにより、1933年に死んだこの詩人の、1922年の心象を追体験することとなります。私は何度もこの詩を読んでいると、前世で101年前の5月に小岩井農場を賢治の後から歩いたような気がしてきました。

 

今回小岩井農場を訪れた日は、朝のうちは曇っていたのですが、農場に着いた頃には岩手山が見えてきました。右の山すそにはなだらかな二つこぶの鞍掛山も見えました。

賢治には「岩手山」(1922.6.27)という、まさに心の中に投影された自然の表象をさっとスケッチした、すてきな作品があります。でも、よく読むと不思議な詩です。

 

そらの散乱反射のなかに

古ぼけて黒くゑぐるもの

ひかりの微塵系列の底に

きたなくしろく澱むもの

 

賢治が愛し、友や家族とともに何度も登った山なのですが、「古ぼけて黒」いとか、「きたなくしろく澱むもの」とけなしているのです。彼はなぜか世界を心象の中に取り込むと、水中のように表現することがあります。「小岩井農場」の冒頭にも、「砂糖水の中の/つめたく明るい待合室」という表現がありました。「青森挽歌」でも「こんなやみよののはらのなかをゆくときは/客車のまどはみんな水族館の窓になる」、「こんな車室いつぱいの液体のなかで」という記述があります。この「岩手山」という心象スケッチでは、巨大な岩手山を心の中の水槽に閉じ込め、愛するゆえにからかって見ているようなところがあります。そんなことを考えながら改めて雄大岩手山を見上げると、不思議に親しみを感じました。

 

小岩井農場の東側の上丸地区には、賢治の詩碑があります。でも、今回は熊が出たということで立ち入り禁止になっていました。今年は異常気象のせいか山のドングリが不作で、熊たちが冬眠前に里に出てきているようです。異常気象ばかりか、世界のあちこちでは戦争が起こり、熊も人間も生きにくい時代になりました。熊の出ない時期にまた来ることにして、小岩井農場をあとにしました。

 

参考文献・出典

宮沢賢治全集1』ちくま文庫

『定本 宮澤賢治語彙辞典』原子朗 筑摩書房

宮沢賢治の真実』今野勉 新潮文庫

『図説 宮沢賢治』上田哲他 河出書房新社

「真空溶媒」とシュルレアリスム

宮沢賢治の『春と修羅』には、彼が心象スケッチと呼んだ70編の口語詩が、8つのパートに分けておさめられています。前回ご紹介した「春と修羅」に続くパートに、「真空溶媒」というちょっとシュールな作品があります。本文248行という、「小岩井農場」「青森挽歌」に続く長大な作品です。この作品は内容が超現実的であるばかりでなく、シュルレアリスムの「自動記述(オートマティスム)」や「デペイズマン」に似た手法が用いられています。何人かの研究者が、賢治の心象スケッチ全般についてシュルレアリスムとの類似を指摘していますが、この作品からはそのことが特に感じられます。「自動記述」は、あらゆる先入観を排して自動的に文章を書くことにより、無意識の思考やイメージを表出させる手法です。シュルレアリスム創始者アンドレ・ブルトンは、フロイト精神分析から自動記述を思い立ったとしていますが、賢治も又フロイトに関心があったことを知人の森荘己池が『宮沢賢治の肖像』に書き残しています。ちなみに、ブルトンと賢治は1896年の同年に生まれ、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』は『春と修羅』と同じ1924年に出版されています。このことは、賢治がシュルレアリスムから直接の影響を受けていないことを示すと同時に、世界の文学や思想の動向と無縁でなかったことを示しています。天沢退二郎新潮文庫版『宮沢賢治詩集』の解説で、ジョイスプルーストブルトンといった例を挙げ「1920年代の思潮の渦の中で、賢治の心象スケッチの方法が誕生」したと述べています。花巻という地方都市にいながら、賢治は世界につながっていたのです、

彼が、まだ日本に伝わっていなかったシュルレアリスム的な手法を採用し心象スケッチを作成した理由を問うことは、このブログの目的である「心象スケッチ」の真の目的を追求する上で不可欠と考えます。

 

さて、作品を読んでいきましょう。何分長い作品ですので、大幅に省略し、改行は斜線で記すことにします。原文の味わいが損なわれることをご容赦ください。

副題にドイツ語で「Eine Phantasie im Morgen(朝の幻想)」とあり、次のように始まります。

融銅はまだ眩めかず / 白いハロウも燃えたたず

地平線ばかり明るくなつたり陰つたり / はんぶん溶けたり澱んだり

しきりにさつきからゆれてゐる

おれは新らしくてパリパリの / 銀杏なみきをくぐつてゆく

その一本の水平なえだに / りつぱな硝子のわかものが

もうたいてい三角にかはつて / そらをすきとほしてぶらさがつてゐる

けれどもこれはもちろん / そんなにふしぎなことでもない

 

太陽の光を科学者らしく「溶けた銅の赤い光」に例え、それがまだ輝かず、ハロー(光輪)も見えないまだ薄暗いイチョウ並木を、「おれ」は歩いていきます。すると、イチョウの木の枝に三角形をしたガラスの若者がぶら下がっています。シュルレアリスムの「デペイズマン」という手法は、「ある物を日常的な環境から異質の環境に転置し,その物から実用的性格を奪い,物体同士の奇異な出会いを現出させる。この方法により人々の感覚の深部に強い衝撃を与えること」(ブリタニカ国際百科事典より)であり、ダリやマグリットの絵画が思い浮かびます。イチョウの枝に「硝子の若者」がぶら下がっていることはまさに異質なものの出合いなのですが、賢治は「けれどもこれはもちろん そんなにふしぎなことでもない」と述べて、「真空溶媒」の怪しげな作品世界にいざないます。

賢治が銀杏の水平な枝に見た硝子の若者は、賢治自身の姿なのかもしれません 
上野公園の銀杏並木にて撮影

2マイルほども歩いてイチョウ並木を抜けていくと夜が明けていき、丸められた雲が「パラフィンの団子」になって青い空に静かに浮かんでいます。

むかふを鼻のあかい灰いろの紳士が / うまぐらゐあるまつ白な犬をつれて

あるいてゐることはじつに明らかだ

 (やあ こんにちは)/(いや いゝおてんきですな)

 (どちらへ ごさんぽですか / なるほど ふんふん ときにさくじつ

  ゾンネンタールが没くなつたさうですが / おききでしたか)

 (いゝえ ちつとも / ゾンネンタールと はてな

 (りんごが中つたのださうです)

 

「ゾンネンタール」については、ドイツ語に直訳して「太陽の谷」のこと、あるいはオーストリアの俳優の名前とする説がありますが、賢治も「ゾンネンタール はてな」と書いているのですから、あまり気にすることもないでしょう。

みろ その馬ぐらゐあつた白犬が / はるかのはるかのむかふへ遁げてしまつて

いまではやつと南京鼠のくらゐにしか見えない

 (あ わたくしの犬がにげました)/(追ひかけてもだめでせう)

 (いや あれは高価のです / おさへなくてはなりません/さよなら)

苹果の樹がむやみにふえた / おまけにのびた

おれなどは石炭紀の鱗木のしたの / ただいつぴきの蟻でしかない

 

鼻の赤い灰色の紳士と話していると馬のように大きな白犬が逃げ出し、南京鼠のように小さく見えるほど遠くに行ってしまい、紳士もまた犬を追いかけて行きます。すると、「おれ」もまた「一匹の蟻」の大きさまで縮小してしまい、しかもおよそ3億年前の石炭紀の、その石炭のもとになった今は存在しない鱗木(巨大なシダ植物)の下に立っています。賢治は「おれ」についても、心の中の対象として見ているのです。前回取り上げた「春と修羅」の「おれ」は賢治自身であり、「おれはひとりの修羅なのだ」と自己を定義していましたが、「真空溶媒」の「おれ」は、作品中には登場しない〈私〉が見た心の中の一人物なのです。『春と修羅』の70編の心象スケッチの中で、自分のことを「おれ」と一貫して表現しているのはこの2作品だけですが、両者の「おれ」は明らかに異なるのです。

やがて昼になり、朝にはパラフィンだった雲が燃えだし「リチウムの紅い焔」をあげ、草は赤茶けた褐藻類に変わり「こここそわびしい雲の焼け野原」という地獄のような風景に変わります。すると「どうなさいました 牧師さん」と声をかける人物が登場し、「わたくしは保安掛りです」と自己紹介します。彼には「おれ」が牧師に見えるのでしょう。有害な硫化水素や無水亜硫酸のガスが流れてきて「おれ」の意識が遠のくと、保安掛りが時計を盗もうとします。やがて雨が降ってきて有毒ガスは溶け、「おれ」は正気に戻ります。保安掛りをどなりつけると、彼は「ただ一かけの泥炭」になり、四角い背嚢だけが残ります。ガスが雨で流され、赤茶けた草は「葉緑素を恢復し」、穏やかな風景が戻ります。

虹彩はあはく変化はゆるやか / いまは一むらの軽い湯気になり

零下二千度の真空溶媒のなかに / すつととられて消えてしまふ

それどこでない おれのステツキは  / いつたいどこへ行つたのだ

上着もいつかなくなつてゐる / チヨツキはたつたいま消えて行つた

恐るべくかなしむべき真空溶媒は / こんどはおれに働きだした

 

ここで、ようやく「真空溶媒」という語が出てきました。真空は溶媒のように作用して「おれ」を含むすべてを溶かしこんでしまうものと認識されています。零下二千度という、本来ありえない温度が、全てを吸い込むブラックホールのような負の印象を強めています。この詩から7年後、病に倒れた賢治は死を意識して「疾中」という一群の詩を書きます。その中のひとつに、「からだは骨や血や肉や/それらは結局さまざまな分子で/幾十種かの原子の結合/原子は結局真空の一体/外界もまたしかり/……/われ死して真空に帰するや/ふたたびわれと感ずるや」と記します。自分も世界も真空から生まれ真空に帰するという思想で、宇宙は「真空のゆらぎ」から生じたと主張する現代の量子論に通じるものを感じます。

やがて、赤鼻の紳士が犬を連れて戻ってきます。犬の種類を尋ねると、北極犬であり馬のように乗れることがわかります。「おれ」は北極犬を借りて東へ歩き出し青い砂漠を旅行し、冒頭のイチョウ並木に戻って来ます。すべてが輪廻のように繰り返す予感を残して、この心象スケッチは終わります。

おれはたしかに / その北極犬のせなかにまたがり / 犬神のやうに東へ歩き出す

まばゆい緑のしばくさだ / おれたちの影は青い沙漠旅行

そしてそこはさつきの銀杏の並樹 / こんな華奢な水平な枝に

硝子のりつぱなわかものが / すつかり三角になつてぶらさがる

この作品には1922年5月18日の日付が記されています。農学校の教員になって半年がたち、妹トシが亡くなる半年前です。生徒や同僚たちと安定した教員生活を続けながら、盛んに詩や童話を書いていたころです。賢治はこの作品で、かねてより考えていた思想を実験的に展開しようとしたのではないでしょうか。

賢治には父宛の手紙の中で「戦争とか病気とか学校も家も山も雪もみな均しき一心の現象に御座候」(大正7年、書簡番号46)と書き、友人の佐々木又治には「本当ニコノ山ヤ川ハ夢カラウマレ、寧ロ夢トイフモノガ山ヤ川ナノデセウ」(同年、書簡番号54)と述べる唯心論的・独我論的な傾向がありました。それを更に発展させ、保阪嘉内には「やがて私共が一切の現象を自己の中に包蔵することができる様になったらその時こそは高く高く叫び立ち上がり、誤れる哲学やご都合次第の道徳を何の苦も無く破って行かうではありませんか」(同年、書簡番号50)と書き送っています。これは、後に森佐一(森荘己池の本名)に宛てた手紙で『春と修羅』は「歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画」したものであるという主張(大正14年、書簡番号200)につながります。心象スケッチは単に自分の心情を詠った抒情詩ではなく、自動記述によって世界を新たに捉え直し再創造しようとした試みだったのです。しかし、妹トシの挽歌群の一部、率直に言って「真空溶媒」よりはるかに感動的な「松の針」等は、上記の心象スケッチの有りようからははずれているように思われます。この点は、改めて考察したいと思います。

「真空溶媒」を典型とする心象スケッチが、自分の心に浮かんでくる様々な象を自動記述的に記述したものであるとすると、それは口語詩に留まることはありませんでした。賢治は『注文の多い料理店』の広告文の中で、「この童話集の一列は実に作者の心象スケッチの一部である」と、童話もまた心象スケッチであるとしています。イチョウの木にぶら下がる三角形の硝子の若者を含め複数の人物が交錯する「真空溶媒」は、口語詩と童話の中間領域にあって、両者に共通の心象スケッチの秘密を垣間見させてくれる作品です。でも、あまり微細に読み解こうとすることは、かえって深みにはまることになるような気がします。賢治自身、『注文の多い料理店』の序で「なんのことだか、わけのわからないところあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです」と告白しています。自動記述による心象スケッチは、著者さえ気づかぬ新たな世界を創造する可能性を秘めています。童話も小説も、更に広く芸術というものは、究極のところ論理的な言葉では説明出来ないことを表現しようとするものです。賢治のめざしたものも、まさにそのようなものだったと思います。

 

参考文献・出典

宮沢賢治全集1,2,9』ちくま文庫

宮沢賢治シュルレアリスム高橋世織 明治書院 

宮沢賢治 透明な軌道の上から』栗原敦 新宿書房

『新編 宮沢賢治詩集』天沢退二郎編 新潮文庫

『心象スケッチ 春と修羅』

大正11(1922)年1月、宮沢賢治は2年後に『心象スケッチ 春と修羅』として自費出版する口語詩を書き始めます。同年4月8日の日付が記され、詩集の題名ともなった「春と修羅」は、次のような詩句により始められます。

 

  心象のはいいろはがねから

  あけびのつるはくもにからまり

  のばらのやぶや腐食の湿地

  いちめんの諂曲模様

  (正午の管楽よりもしげく

   琥珀のかけらがそそぐとき)

  いかりのにがさまた青さ

  四月の気層の光の底を

  唾し はぎしりしゆききする

  おれはひとりの修羅なのだ

  (風景はなみだにゆすれ)

 

私は、詩は素直に読み、詩人の心と読み手の心が響きあえばそれで良いのだと考えています。しかし、この詩からは心の中に何かざらざらとした得体のしれないものが広がるのを感じ、なぜそう感じるのか考え込まざるをえません。初めて読んだ中学生の時、4行目の「諂曲(てんごく)」という言葉の意味が分からず、次の行に「正午の管楽」とあるので平安時代の音楽の一種かなと思いました。改めて「諂曲」を辞書で引いてみると、「自分の意思をまげて、こびへつらうこと」とありました。また、「諂」という漢字には「よこしまなことをする」という意味もありました。この詩は心象スケッチですから、賢治は自分の心の中の光景を記しているのだと気づきました。春になると北国の凍てついた大地から生命が萌え上がり、植物でさえも、あけびの蔓のようにからみ他の植物を利用し押しのけて生きて行こうとします。賢治自身、父の質屋という職業を卑しみながら、そこからの収入で生きてきました。家出青年が農学校の教師になれたのも、彼が「財閥」と呼ぶ宮澤一族の力と信用によるところもあったかもしれません。親友だった保阪嘉内を無理に折伏国柱会に入れようとして断られ、二人とも傷つきました。思い通りに行かないことを唾棄し、歯ぎしりし、怒ったこともあったのでしょう。そこから自分が修羅であるという自覚が生まれたのでしょうか。

 

修羅とは阿修羅のことですが、賢治の座右の書である島地大等の『漢和対照 妙法蓮華経』には、阿修羅について「山中、又は大海の底に居り、闘争を好み常に諸天と戦う悪神なり」という解説があります。しかし、阿修羅はその後仏教に帰依し、興福寺の国宝「阿修羅像」のように他の諸天とともに仏教を守護する眷属となりました。以前ご紹介した「仏涅槃図」でも、釈迦の足元で死を悲しむ姿が描かれるのが定番となっています。

宮沢賢治記念館には、次のような展示品がありました。

中央に南無妙法蓮華経と大きく書かれた日蓮宗の本尊「十界曼荼羅」の前に、興福寺の阿修羅像のミニチュアが立っています。父や母の浄土真宗を離れて、自分の心の中の諂曲模様を見つめながら日蓮宗に帰依する賢治の姿を表しているのだろうと感じました。阿修羅は仏教に帰依しても六道輪廻の中の修羅道から抜け出すことも、戦う神であることを辞めるわけにもいきません。日蓮は『観心本尊抄』という著作の中で、「瞋(いか)るは地獄、貧(むさぼ)るは餓鬼、痴(おろ)かは畜生、諂曲は修羅、喜ぶは天、平らかなるは人」と記し、一人の人間の中に輪廻転生する六道(地獄道、餓鬼道、畜生道修羅道、人道、天道)の全てがあるとしています。賢治が自己を修羅と規定した時、この日蓮の言葉が頭にあったことは間違いないでしょう。

 

自分自身を「日本第一の行者」「日本第一の大人」と誇らしく称した日蓮に対し、親鸞は自分のことを愚禿(ぐとく)と呼んでいました。そして、『愚禿抄』という著作の中で、「愚禿が心は、うちは愚にして外は賢なり」と記しています。つまり、「私(親鸞)は外見上は賢く見えるが、その中身は煩悩にまみれ愚かである」と言っているのです。親鸞が自己を愚禿と規定したように、賢治も自分を修羅と規定しました。賢治が聖人であるか否かと言った議論は不毛ですが、親鸞同様自分の心の闇を見つめ続けた人であったことは確かです。それは悪人や凡人にはできないことです。彼は16歳の頃父親宛の手紙(書簡No.5)に「歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と記しています。後に日蓮主義を標榜する国柱会に入信しましたが、感性的には親鸞に近い立場を維持したように思えます。

 

春と修羅」の中ほどには次のような詩句があります。

 

     ああかがやきの四月の底を

    はぎしり燃えてゆききする

   おれはひとりの修羅なのだ

   (玉髄の雲がながれて

    どこで啼くその春の鳥)

   日輪青くかげろへば

    修羅は樹林に交響し

     陥りくらむ天の椀から 

      黒い木の群落が延び

       その枝はかなしくしげり

      すべて二重の風景を

     喪神の森のこずえから

    ひらめいてとびたつからす

 

多くの詩や童話で賢治は岩手の自然を美しく表現しましたが、彼の心象の投映がそこに重く苦しい世界をも現出させ、彼には「すべて二重の風景」として見えたのでしょう。この詩には、題名の横に(mental sketch modified)とあります。同様の副題を付されたのは「青い槍の葉」と「原体剣舞連」だけです。3つの作品は趣を異にするものですが、単なる心象スケッチではなく、心に浮かんだ光景を再構成したものという点は共通するように思えます。また、『春と修羅』の序(1924年1月20日)には「これらは二十二箇月の/過去とかんずる方角から/紙と鉱質インクを連ね」とありますが、最初に掲載された詩「屈折率」の日付は1922年1月6日であり、24か月前になってしまいます。詩「春と修羅」(1922年4月8日)はおよそ22か月前の日付になっており、この詩から彼の口語詩は本格的に始まったという自覚があったのでしょう。生前出版した唯一の詩集の表題としたこの詩には、特別の意味が込められていたのです。

 

春と修羅」の終わりは以下のようになっています。

 

  けらをまとひおれを見るその農夫

  ほんとうにおれが見えるのか

  まばゆい気圏の海の底に

  (かなしみは青々ふかく)

  ZYPRESSEN しづかにゆすれ

  鳥はまた青ぞらを截る

  (まことのことばはここになく

   修羅の涙はつちにふる)

 

  あたらしくそらに息つけば

  ほの白く肺はちぢまり

  (このからだそらのみぢんにちらばれ)

  いてふのこずゑまたひかり

  ZYPRESSENいよいよ黒く

  雲の火ばなは降りそそぐ

 

賢治は、農夫、すなわち他人には自分が修羅であることはわからないのではと思い、「まことのことばはここになく」という語で言語の限界を嘆きます。青空に向かって大きく呼吸をすれば肺が縮こまり、病弱な肉体の限界を感じるのでしょうか。そうした自分に対し、春のイチョウやZYPRESSEN(糸杉)はいよいよ繁り、雲の間からは日の光が火花のように降り注ぐのです。

 

稗貫郡立農学校は1923(大正12)年4月1日に郡制廃止に伴い県立花巻農学校となり、若葉町の新校舎に移転しました。1969年、更に花巻空港のそばに移転したため現在は公園(「ぎんどろ公園」)となり、「風の又三郎」のモニュメントが建っています。その外れに、賢治の同僚の教員で特別親しかった堀籠文之進の筆による碑がありましたので、写真を撮って来ました。

 

 

ちなみに、賢治は『春と修羅』にある「小岩井農場」の、出版時に削除したパート5(第五綴)に堀籠のことをこう書いています。

 

「堀籠さんは温和しい人なんだ。/あのまっすぐないゝ魂を/おれは始終おどしてばかり居る。/烈しい白びかりのやうなものを/どしゃどしゃ投げつけてばかり居る。/こっちにそんな考えはない/まるっきり反対なんだが/いつでも結局さう云うことになる。/私がよくしようと思ふこと/それがみんなあの人には/つらいことになってゐるらしい」(『春と修羅異稿。「小岩井農場 先駆形B」より)

 

好きな友達をからかい過ぎて、反省している子供のような詩です。「心象スケッチ」という方法を採ると、こういうつぶやきも出てくるということです。彼の詩法の秘密が垣間見えるような気がします。

 

参考文献

『日本の思想4 日蓮筑摩書房

宮沢賢治 心象の宇宙論』大塚常樹 朝文社

宮沢賢治全集1.9』ちくま文庫

 

 

 

稗貫農学校時代 家出青年が教師に 

大正10(1921)年12月、宮沢賢治は稗貫(ひえぬき)郡立稗貫農学校の教諭となりました。明治40年に開所した蚕業講習所が4月に衣替えしたもので、町の人々や隣の花巻女学校の生徒からは、「桑っこ大学」と呼ばれた小さな学校に、兵役に就いた者の後任として賢治は採用されました。でも、同じ年の1月に家出をした青年が、公立の学校の教師になれたというのはちょっと意外です。そもそも25歳の大人が「家出」というのは表現としてどうかと思い、『新校本 宮沢賢治全集』を調べてみたところ、当時の地元紙「岩手新報」の大正10年3月6日付け朝刊の次の様な記事が載っていました。

 

「花巻川口町に於ける素封家の息宮沢賢治(二五)君は大正七年盛岡高等農学校を優等で卒業した秀才だが、遂四五日前の深夜飄然と家出し爾来行衛不明なので仝町では此頃の話題として種々な取沙汰している。同君は・・・常に最優等で同級生間に君子人の如く尊敬を払われていた。それに酒も飲まず煙草は喫わず女の話一つもないと云う石部金吉派に属する人間だと高農在学当時から同級生間の『変人』として取扱かはれていた。・・・・」

 

家出ではなく、せめて「出奔」とでも書いてくれれば良いものを、新聞に家出と書かれたうえ「変人」扱いされては、家族や本人にはつらいものがあったと思います。先にご紹介した岩手民報のトシのゴシップ記事といい、花巻という地方都市の名士の一族に生まれた者の不運ということでしょうか。良くも悪くも周りから注目されていたようです。郡立稗貫農学校は大正12年に県立花巻農学校へと昇格しますが、地元の有力者であった賢治の母の兄弟の宮澤恒治はその運動の中心人物でした。また、恒治の兄直治は後に花巻町長になっています。町の政治にもかかわる一族に属するということで、家出には目をつぶって教員に採用されたのかもしれません。

 

賢治は後に教え子に宛てた手紙に「農学校の四年間がいちばんやりがいのある時でした」と記しています(書簡番号260)。実際、『春と修羅』と『注文の多い料理店』は、この時期に出版されています。

花巻の宮沢賢治記念館にて撮影



この時期、不思議なことがひとつあります。大正11(1922)年1月から大正14(1925)年2月までの3年間、最初の年の年賀状を除いて1通の手紙も残っていないのです。賢治をめぐる人々は、驚くほど彼の手紙をきちんと保管していました。親友保阪嘉内宛の手紙73通は、2008年にテレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」に出品され、1億8千万円という鑑定額が付いたほど、賢治の手紙には市場価値があります。もしどこかに手紙が残っていれば、きっと世に出ていたはずです。ですから、彼は実際にほとんど手紙を書かなかったのでしょう。賢治の置かれた状況や内心を知ることができる手がかりとして手紙は貴重な資料ですので、彼の代表作が書かれたこの時期に手紙が存在しないことは残念なことです。その代わり、彼が心象スケッチと名づけた口語詩には、その末尾に日付が記されています。賢治は自作の詩を何回も推敲し改稿していますので、必ずしもその日付に書かれたということではないのですが、なんらかの原体験があった日と言われています。『春と修羅』の冒頭を飾る心象スケッチ「屈折率」には、稗貫農学校教員となった翌月、「1922.1.6」という日付が記されています。

 

    屈 折 率

 七つ森のこっちのひとつが

 水の中よりもっと明るく

 そしてたいへん巨きいのに

 わたくしはでこぼこ凍ったみちをふみ

 このでこぼこの雪をふみ

 向こうの縮れた亜鉛の雲へ

 陰気な郵便脚夫のやうに

   (またアラツデイン 洋燈とり)

 急がなければならないのか

             (1922.1.6)

  

明るい世界を通り過ぎて雪を降らせる暗い雲の方へ、アラジンの魔法のランプを取りに行くのだという決意を述べている、明るさと暗さが交錯している作品です。このブログの最初の日に、口語詩は心象スケッチであり、彼が重要と信じる「或る心理学的な仕事」の「支度」であると述べた大正14年の賢治の手紙を紹介しました。その「仕事」はこれから取りに行くアラジンの魔法のランプがあってこそ成し遂げられるものであり、その「支度」はでこぼこの雪道を歩かなければならぬつらいものになるかもしれぬと賢治は感じ、「陰気な郵便脚夫」のように急いで進もうという覚悟をしています。そして、その予感は、11か月後信仰の先達であるトシの死として現実となるのです。

 

参考文献

新校本宮沢賢治全集16巻下 補遺・伝記資料編 筑摩書房

宮澤賢治全集Ⅰ ちくま文庫

 

 

 

 

宮沢賢治 浮世絵と短歌の謎

宮沢賢治はたいへんな浮世絵好きでした。

大正5(1916)年8月17日、彼が20歳の夏、ドイツ語の勉強のため上京した際、親友の保阪嘉内に送った手紙の中に、次の2首の浮世絵に関する短歌があります。

 

歌まろの 乗合船の 絵の前に なんだあふれぬ 富士くらければ

ほそぼそと 波なす線は うすれ日の 富士のさびしさ うたひあるかな

 

翌月の手紙に上野の東京国立博物館に行ったことが記されていますので、おそらくそこで観た浮世絵版画を詠ったものでしょう。この絵は歌麿のどんな作品なのでしょうか。そして、なぜ富士を見て涙があふれたのでしょうか。3年後の大正8年の同じく保阪宛の手紙にこの時のことを回想して、「博物館にはいい加減に褪色した歌麿の三枚続き」があったとありました。以上より、歌麿作品で富士を背景として、乗合船が描かれた、3枚続きの作品をネットで探したら、次の画像が見つかりました。

 

喜多川歌麿一富士二鷹三茄子』3枚続き錦絵 出典:Library of Congress

東京国立博物館東博)の画像検索では見つかりませんでしたが、米国のLibrary of Congress(米国議会図書館)の公開画像にあったものです。東博の浮世絵コレクションの大半は、1943年に所蔵となった松方コレクション約8,000点とその後の収集品・寄贈品です。賢治が見た頃の館蔵品は少なかったと思われます。東博の所蔵品がアメリカに渡ったという情報はありませんので、上記作品は別の摺りなのでしょう。この作品は題名にある通り、徳川家康が好きだったといわれる富士と茄子と鷹を描いたおめでたい作品です。左の男は茄子をかごに入れて売り歩く行商人(棒手降りといいました)、中央のやや女性的な男は鷹匠、背景には雪をかぶった富士山が見えます。正月の夢に見ると良いことがあるということで、江戸時代の人々は枕元に飾って寝たのかもしれません。でも、絵の登場人物はあまりうれしそうな顔をしていません。米国議会図書館によれば、この絵は1798~1801年頃に描かれたとされています。この頃、歌麿寛政の改革に続く幕府の文化芸術弾圧により得意の美人大首絵を禁じられ、その後筆禍事件で手鎖40日の刑に処せられ、1806年に失意の内に亡くなったと伝わっています。歌麿にとっては、自分をいじめる江戸幕府を開いた家康の好きなものを描くのは、不本意だったかもしれません。賢治はそういった歌麿の境遇をこの絵から読み取り、富士を見て涙したのではないでしょうか。

20歳の賢治は東京を去るにあたって嘉内に送った手紙の中で、「博物館へ行って知り合いになった鉱物たちの広重の空や水とさよならして来ました」と記しています。「知り合いになった鉱物たち」とは、彼の詩にも登場する伯林青(プルシャンブルー、べるりんせい)のことで、江戸後期に長崎経由もたらされた鉱物由来の青の顔料です。安価で発色が良く褪色しにくい為、多くの浮世絵師が用いました。特に広重の青は西洋でももてはやされました。歌麿の時代にはなかったため、上記の絵でも褪色が進んで悲しげな雰囲気になったのかもしれません。

花巻の宮沢賢治記念館には、彼が残した歌麿と国貞の錦絵(多色摺り浮世絵版画)が展示されていました。案内パネルには右の絵は「豊国画」とありましたが、歌川国貞の誤りです。国貞の号「五渡亭(ごとてい)」が記されています。

賢治遺品の浮世絵 宮澤賢治記念館にて撮影

賢治は浮世絵の愛好家でしたが、いわゆるコレクターではなかったようで、買い求めた浮世絵を友人知人におしげもなくプレゼントしていたようです。ただ、若い頃の浮世絵購入は父親からすれば道楽に見えたようです。大正8年8月の保阪嘉内宛の手紙で、父親が「きさまは世間のこの苦しい中で農林の学校を出ながら何のざまだ。・・・錦絵なんかを折角ひねくり回すとは不届千万」と毎日のように言っていると述べています。ただ、賢治の家にはもともと浮世絵があったようです。江戸時代以来の旧家では、土蔵に浮世絵を保存していた例が多く、賢治の妹シゲの回想録には浮世絵を貼った枕屏風が土蔵の中にあったと記されています。賢治が骨董商に騙されたふりをして粗悪な浮世絵を自分のコレクションと交換し、骨董商の心を読んで楽しんでいたとの記述があります。家族から見れば愚かな行為と見えたようですが、その後の童話の登場人物の心理描写に活かしたに違いありません。亡くなる少し前にも、「浮世絵広告文」(1931年7月)、「浮世絵版画の話」 ( 1932~1933秋頃)といった、確かな浮世絵の見識を示す文章も残しています。

賢治が書いた詩歌の形式は、短歌(13~25歳)、口語詩(25~32歳)、文語詩(32~37歳)と、ほぼ年代順に変化しています。その内彼が「心象スケッチ」と呼んだのは口語詩と、童話だけでした。中学生の頃「日記を書くように、毎晩、短歌を作っていました」と親類の関登久也は記しています。文語詩は彼の若すぎる晩年に、末妹のクニに「なっても(何もかも)駄目でも、これがあるもや」と語ったと伝わる彼の人生の総決算でした。この、詩形式の変遷にも、彼の心象スケッチが何を目指したのかという謎を解く鍵があると考えています。

賢治がたびたび訪れて浮世絵を鑑賞した、ジョサイア・コンドル設計の東京国立博物館本館は、大正12(1923)年の関東大震災で倒壊してしまいました。現在の本館は昭和12年に再建されたもので、賢治は見ていません。その代わり、賢治も訪れたはずの、明治42(1909)年に開館し現在も残る、片山東熊設計の表敬館の写真をご紹介してブログを終わります。

東京国立博物館 表敬館

参考文献

岩田シゲ『屋根の上が好きな兄と私』蒼丘書林

宮沢賢治全集3,9,10』ちくま文庫

『図説 宮澤賢治ちくま学芸文庫 他

精神主義と日蓮主義 一之江の妙宗大霊廟を訪ねて

宮沢賢治の妹トシは、大正11(1922)年11月27日、24歳で亡くなりました。葬儀は宮沢家の菩提寺であった浄土真宗大谷派の安浄寺で行われましたが、国柱会に入信していた賢治は参列せず、同会の定める方式によって一人で追善したとのことです。翌年1月、賢治はトシの遺骨を分骨し、当時静岡県三保にあった国柱会の合同墓「妙宗大霊廟」に納骨する手続きをしています。

妙宗大霊廟は昭和3年に東京都江戸川区一之江に移転しています。先日トシの霊にお参りするために、一之江に行った際に撮影したのが次の写真です。

堀尾青史の『年譜宮沢賢治伝』によると、トシの遺骨は大正12年の春、「父と妹シゲが三保に納める」とあります。何らかの事情で賢治は三保に行かなかったようです。父の政次郎は浄土真宗の篤信の信者でしたから、大霊廟への納骨が賢治一人の望みであれば自ら三保まで行くことはなかったでしょう。おそらくトシ自身の希望をかなえてやるためだったのではないでしょうか。それでは、トシは国柱会の信者だったのでしょうか。国柱会のホームページには賢治が大正9年に信者として入会していることと、トシの遺骨が大霊廟に納められていることは記されていますが、トシが入会していたとの記載はありません。

その一方賢治の遺骨は、終生国柱会員であったにも関わらず妙宗大霊廟に納骨されていません。当初は浄土真宗の安浄寺、現在は宮沢家が日蓮宗に改宗したため花巻の日蓮宗身照寺に納められています。その代わり、大霊廟のある庭園の一画に賢治の辞世の歌を刻んだ歌碑が建てられていました。

賢治とトシが国柱会とどのように関わったのかは、このブログの2番目の謎に関わってきます。浄土真宗の島地大等の『漢和対照妙法蓮華経』に心酔しその教えも受けた賢治が、なぜ浄土真宗を棄てて国柱会に入ったかという謎です。単に法華経を学ぶということであれば宗旨替えは必要なかったはずです。この点に関連し、宗教社会学者の大谷栄一が次の様なことを示唆しています。

 

政次郎の真宗信仰は、当時の最先端の近代真宗精神主義信仰)だった。賢治の法華信仰は、やはり当時の最先端の近代法華・日蓮信仰である日蓮主義に立脚していた。両者の対立は、近代的な「精神主義日蓮主義」という枠組みで理解されるべきであろう。(『日蓮主義とは何だったのか』p.311)

 

どちらも複雑な内容と背景がある思想運動なのですが、あえて一言でいえば、精神主義というのは清沢満之が始めた思想で個人の内面の充足に重きを置く立場です。日蓮主義は国柱会の指導者田中智学の造語で、法華経及び日蓮の思想に基づき社会を変革していこうとする立場です。花巻高等女学校時代のスキャンダルから逃げるように花巻を出て来たトシは、大正4年父の紹介で、清沢満之に近く当時仏教界の内村鑑三ともてはやされていた近角常観に面談しています。しかし、面談内容に満足できなかったことを感じさせる近角宛の長文の手紙が2通残されています。その後トシは日本女子大成瀬仁蔵による西洋の哲学や神秘思想の教えを受け、インドの詩人タゴールの講演を聴いたりしています。そして、大正7年12月発病したトシの看護のために、賢治は母とともに上京し、翌年大正8年3月初めまで東京にいます。大正9年12月の保阪嘉内宛ての賢治の書簡に、田中智学の演説を「只二十五分だけ昨年聴きました」とありますので、上記の上京の際に聴講したのでしょう。看病に来てくれた兄との会話の中で、トシの心も日蓮主義に傾いていったのではないでしょうか。その後病の小康を得たトシは大正9年2月に「自省録」を書き、同じ年に賢治は国柱会に入会しています。

賢治の心象スケッチ「無声慟哭」には、「信仰を一つにするたったひとりのみちづれのわたくし」という一節があります。兄妹は、この時期父の浄土真宗をベースにした精神主義から離れ、田中智学の日蓮主義の立場に立つことを明確にしたと思われます。ただし、国柱会に対する極端な心酔を示した賢治に対し、トシの「自省録」はより広い視野を持っていたようです。後年の賢治も、智学の日蓮主義に比べより豊かな心象世界を展開していきます。

 

国柱会本部に続く参道の片隅に、蓮の花が咲いていました。江戸川区教育委員会の案内板によれば、2000年前の蓮の種子を発芽成長させた大賀蓮を移植したものだそうです。賢治とトシの魂を見ているような不思議な気持ちになりました。


国柱会は現在有料老人ホームを経営しており、掲示板に職員募集のポスターが貼ってあることに帰りがけに気が付きました。大正10年1月に当時鶯谷にあった国柱会本部を訪ねた賢治が、「どうか下足番でもビラ張りでもなんでも致しますからこちらでお使いくださいますまいか」と頼んだところ、「今は別段人を募集も致しません」と断られたことを思い出し、ほほえましい気持ちになりました。

 

参考文献

大谷栄一『日蓮主義とは何だったのか』講談社

牧野静「宮沢賢治における追善」(『宗教研究』94巻3輯)

岩田文昭・碧海寿広「宮沢賢治と近角常観」(大阪教育大学紀要2010.9)

 

 

 

 

宮沢トシのヴァイオリン 「自省録」と二疋の白い鳥

賢治の二歳年下の妹トシが、高等女学校の生徒だった頃に使ったヴァイオリンが、花巻の宮沢賢治記念館に賢治のチェロと並んで展示されていました。日本で最初にヴァイオリンを量産販売した鈴木政吉が、明治40年に製作したものだそうです。

トシと小学校の同級生で賢治とも親しかった親族の関登久也は、トシのことを「頭の良いという点では、あるいは兄弟中随一ではなかったか」と書き残しています。要するに賢治より頭が良かったということです。父の政次郎はその誇らしい長女に、当時まだ珍しかったヴァイオリンを買い与えたのでしょう。しかし、そのことが彼女の人生に大きなトラウマを残す事件を引き起こすこととなりました。トシは16歳のときに女学校の若い音楽教師にヴァイオリンの課外レッスンを受け、恋心を抱きました。しかし、その教師は別の女生徒の方に関心を持っていたのです。そのことが誰かから漏れ、「音楽教師と二美人の初恋」というゴシップ記事が、「岩手民報」という地元紙に載ってしまったのです。実名は伏せられていましたが、宮沢一族は地元の名士でしたので、皆トシのこととわかったことでしょう。現代から見れば何ということもない出来事ですし、トシは後に母校の教員になるのですから、当時もあまり問題視されなかったのではないでしょうか。しかし、本人の心には大きな傷跡を残しました。

花巻高等女学校跡地 現在は生涯学習施設が建っている。
右手前の空地に、かつて賢治が勤務した稗貫郡立稗貫農学校があった。

トシは女学校を卒業すると、東京の目白にある日本女子大学に進みました。兄の賢治には中学卒業後進学することを許さず家業を継がせようとした父が、トシには進学を許したのは、傷心の娘をしばらく知らない土地に移そうという親心だったのかもしれません。賢治も、同じ年に盛岡高等農林学校(現岩手大学)に進学を許され、二人は図らずも高等教育においては同学年となりました。

 

日本女子大学は明治34(1901)年、成瀬仁蔵により創立された日本で最初の女子大です。トシはここで家政学を専攻するかたわら成瀬の提唱した「実践倫理」の講義を受け、宗教や哲学を学びました。そして、卒業後に花巻高等女学校の教師として帰郷するに際して、事件の総括と今後の自分の進む道を確かめる長文を、大正9(1920)年に記しました。それを、彼女の甥にあたる宮沢敦郎氏が昭和62(1987)年に母クニ(賢治の末妹)の遺品から発見し、「宮沢トシ自省録」と名付けて公表したのです。

その中に、次のような一文があります。ここでトシは自分のことを「彼女」と呼んで突き放して分析しています。

「一念三千の理法や天台の学理は彼女には口にするだに僭越ではあるけれども、彼女の理想が小乗的傾向を去って大乗の菩提即煩悩の世界に憧憬と理想とをおいてゐることは疑ひなかった。」

私はこの文章を読んだとき、トシが結核のため24歳で亡くなった翌年、賢治が書いた「白い鳥」(『春と修羅』所収)という詩の一節の意味がわかったような気がしました。

 

 二疋の大きな白い鳥が

 鋭くかなしく啼きかはしながら

 しめった朝の日光を飛んでゐる

 それはわたくしのいもうとだ

 死んだわたくしのいもうとだ

 兄が来たのであんなにかなしく啼いている

 

トシは一人なのに、白い鳥はなぜか二疋なのです。賢治もトシも参加したと思われる明治44(1911)年の花巻仏教会の夏期講習会で、島地大東は「大乗起信論」を講義しています。「大乗起信論」は難解な書物ですが、人間の心を「心真如」と「心生滅」に分け、両者はそれぞれ一切を包摂し切り離せないものであるとしています。トシの言う「菩提」は「心真如」に、「煩悩」は「心生滅」に相応します。トシは煩悩も菩提も両方とも自分であると受け止めたうえで再生すると、「自省録」の中で誓っているのです。我々は賢治を菩薩の様な人と思うことがありますが、本人は自分を修羅と呼んでいました。賢治もまた修羅であり菩薩であったと私は思います。亡くなった人の人格を思い起こすとき、その人が人生に悩み格闘した煩悩の側面を忘れたなら、それはもう幽冥境を異にすることになります。賢治にとって大きな白い鳥が二疋でなくなったときは、トシとの精神的な交流が完全に断たれることを意味したのではないでしょうか。

 

賢治はトシの自省録のように、自分の内心を客観的に論じる文書を残していません。ですから、このブログの初回に記した二つの謎が残ってしまったのだと思います。もし、トシが賢治より長生きしたら、賢治の思想をもっと分かりやすく解説してくれたのではないでしょうか。賢治はトシの死を悼む詩「無声慟哭」のなかで、自分のことを「信仰を一つにするたったひとりのみちづれのわたくし」と呼んでいます。先達はトシであり、「みちづれ」は賢治の方であったのです。(私はそのことに山根知子氏の著作を読んで初めて気付きました。)しかし、もしトシが賢治の死後まで生きていたら、『春と修羅』の中心をなすあのすばらしい一連の挽歌は生まれなかったことになってしまいます。それでは宮沢賢治という詩人も誕生しなかったかもしれないと思うと、トシはやはり先に死ななければならなかったのでしょうか。

牙彫鷹置物 金田兼次郎作 明治25年(1892)  東京国立博物館

先日、東京国立博物館象牙に彫られた白い鷹の置物を観てきました。賢治はたびたび上野の博物館を訪れていますので、この置物も見たかもしれません。上記の詩の鳥のイメージは本来は白鳥か白鷺と思いますが、この白い鷹の悲しそうな眼は、私にトシを連想させました。

 

参考文献

宮沢賢治 妹トシの拓いた道』山根知子著 朝文社

大乗起信論を読む』高崎直道著 岩波書店 他