宮沢賢治の妹トシは、日本女子大学に入学したばかりの大正4(1915)年4月から5月にかけて、本郷に近角常観(ちかずみ じょうかん)を訪ねています。近角は清沢満之(きよざわ まんし)らとともに宗門改革運動を行った先進的な僧侶で、当時仏教界の内村鑑三と呼ばれるほど人気がありました。宮沢一族とは花巻での仏教講習会を通じて親交があり、3月に女学校での音楽教師とのゴシップ記事が地元の新聞に載ったことによる傷心のトシが、父政次郎の勧めにより訪ねたものと思われます。現在、その地には近角が建てた「求道会館」という建物が建っています。東京都指定有形文化財であり毎月1回公開されており、先日訪ねてきました。
内部はヨーロッパの教会堂のようですが、祭壇には六角堂が置かれ阿弥陀仏が安置されているという、不思議な空間でした。
近角は毎週日曜に講話会を開き、悩める人々の相談に乗っていました。トシもこの会館で悩みを告白したのかと思ったのですが、建物の前に置かれたパネルには大正4年11月に建設されたとありました。トシが訪ねた時には多分工事中だったと思われます。日曜講話会は、会館の奥にある近角の居宅か、求道学舎という寄宿舎で行われていたのでしょうか。
トシは日本女子大学の寮から日曜ごとに求道会館に通いましたが、歎異抄を中心に個人の精神的救済に重きを置く近角の思想は、納得がいかなかったようです。5月29日付けの近角宛の手紙には、面談のうえ食事までご馳走になったことへの丁重なお礼とともに、次のように記されています。
「あらゆる心配苦労を親にかけ、親を涙させるような事をして、三月の末、或る意味の敗北者として、故郷を離れ、のがれて参りました。どうしても、その恥を雪ぎます為に、又親師長の心配に報いる為にも私は、勉強して、成業の道に進まなければならないので御座います。」しかし、近角の講話を聴いても著書を読んでも、罪深い自分は救われることがなく、仏の存在も実感することができないという趣旨のことを述べています。結局トシは参加者名簿に名が残る5月30日を最後に、近角を訪ねることをやめたようです。賢治同様、父の浄土真宗(精神主義)の影響下にあったトシが、初めてその宗教に疑問を持った瞬間だったのかもしれません。賢治は大正6年に、親友保阪嘉内に浄土真宗のバイブルである『真宗聖典』を贈っていますので、法華経は既に読んでいましたが、その頃はまだ浄土真宗を信仰していたと思われます。
その後トシは、日本女子大学の創立者成瀬仁蔵の授業「実践倫理」を通して、西欧の宗教・哲学思想を学んでいきます。成瀬仁蔵というと、私はNHKの朝ドラ「あさが来た」で、瀬戸康史が演じた登場人物のモデルとして始めて知ったのですが、なかなか興味深い人物です。先日、日本女子大学に行ってきましたが、トシがいた時代の建物は成瀬記念講堂だけです。改葬され外観は当時の面影はあまり残っていないようですが、とりあえず写真を撮って来ました。
大正6年(5年とする説もある)の病気の祖父宛ての手紙で、トシは「私も大切なる死後の事一刻も早く心に決めるようにと思い居り候へど未だ確かな信心もなく、このままに死ぬ時は地獄にしか行けず候 何卒御一緒に信心をいただく様に致したく候」と書いており、その頃尚確たる信仰や哲学が持てぬ悩みを抱えていたのでした。そして、彼女は大学の最終学年であった大正7年12月に病気になり東大病院に入院します。その年、盛岡高等農学校を卒業し意に添わぬ家業の質屋を手伝いながら悶々としていた賢治は、母と共に看病のため上京します。トシの病気は、賢治の父宛ての書簡によれば「(悪性の)インフルエンザ、及び肺尖の浸潤」ということでした。この年から3年間、日本だけで40万人、世界では数千万人の死者が出た「スペイン風邪」が猛烈に流行していました。人口が現在の半分以下の時代ですから、新型コロナ禍の比ではないパンデミックでした。しかも、肺湿潤は当時初期の結核のことを指してもいたので、後にトシの命を奪う病気が既に始まっていた可能性が高いのです。幸い病状は賢治の献身的な看護もあって快方に向かい、3月3日には花巻に帰ることができました。休んでいた大学も、成績優秀ということで卒業できました。
注目すべきは、賢治がこの上京のとき、2月16日に初めて国柱会の田中智学の講演を聴いていることです。翌年12月に、国柱会入会を報告した保阪嘉内宛の手紙のなかに「田中先生の御演説はあなたの何分の一も聞いていません。唯二十五分丈昨年聞きました」と記されています。後に賢治による国柱会への誘いを拒否した嘉内の方が、元々は智学の演説を多く聴いていたのは何とも皮肉なことです。いずれにしても、病床のトシとの間では宗教や哲学のことも話し合われ、国柱会についても話題に上ったことでしょう。
以前触れたトシの「自省録」(大正9年2月9日)には、国柱会のことは書かれていません。しかし、大正9年秋には親族で賢治に続いて入会した関徳弥の家の2階で、賢治、トシ、シゲらが国柱会曼荼羅を前に法華経、日蓮遺文を輪読していたことが、新校本宮澤賢治全集の年譜に記されています。いつの間にやらトシは国柱会の信仰に入っていたのです。賢治は「無声慟哭」の中で「信仰を一つにするたったひとりのみちづれのわたくし」と自分のことを称しています。大正4年に近角常観を訪ねて失望したトシが、賢治と共に信仰を求めて国柱会にたどり着いたとすれば、賢治の方がトシの信仰の「みちずれ」であったことに不思議はありません。
賢治とトシの浄土真宗から国柱会への改宗の経緯を年譜にしてみると、次のようになります。
明治45(1912)/11/3 賢治、「歎異抄」(浄土真宗)の信仰が固いことを父宛書簡に記す
大正4(1915)/4~5 トシ、浄土真宗の近角常観に失望
大正5(1916)/6/23 トシ、祖父宛て書簡で信仰の悩みを告白
大正6(1917)/5~12 賢治、保阪嘉内に浄土真宗の『真宗聖典』を贈る
大正7(1918)3/20頃 賢治、保阪嘉内に『漢和対照妙法蓮華経』を贈る
大正8(1919)2/16 賢治、田中智学(国柱会)の演説を聴く
大正9(1920)/2/9 トシ、「自省録」執筆
大正9(1920)秋 賢治、トシ、シゲら国柱会曼荼羅の前で法華経等輪読
大正9(1920)/12/2 賢治、保阪嘉内に国柱会入会を報告
大正11(1922)11/27 トシ、死去。(賢治、シゲ、父に許されお題目を唱える)
大正11(1922)/12 賢治、国柱会に壱百円を入金し翌月トシの戒名を授与される
大正11(1923)春 父とシゲ、国柱会妙宗大霊廟にトシの分骨を納める
前回取り上げた小倉豊文の論文「二つのブラックボックス」では、賢治のブラックボックスは大正6年の嘉内への『真宗聖典』贈与から、同7年の『漢和対照妙法蓮華経』贈与の間の改宗の経緯が不明ということを指していました。しかし、『漢和対照妙法蓮華経』の編著者が浄土真宗の学僧島地大等であること、及び法華経は日蓮宗だけでなく親鸞が学んだ天台宗(延暦寺)の根本経典でもあることから、浄土真宗を信じつつ法華経を読むことは不自然ではありません。現に、賢治の読んだ法華経は父から贈られたものでした。ですから、大正7年の法華経贈与は改宗とまでは言えないと考えます。トシもまた、改宗の経緯は資料的に不明であり、もう一つのブラックボックスと言わざるをえません。ただ、彼女が近角常観の個人の心の救済を重んじる精神主義に失望し、法華経の社会的実践を重んじる日蓮主義の信仰に惹かれていき、賢治も同様の考えに傾いていったことは推測できます。戦後改宗した父政次郎のブラックボックスについては、いずれまた考えてみたいと思います。
最後に、本郷の求道会館の横にある、「浩々堂(こうこうどう)発祥の地」という記念碑の写真をご覧ください。
明治末、近角常観の外遊中に清沢満之らがこの地にあった屋敷を借り、そこに学生たちが寄宿して「浩々堂」という結社を作りました。満之はそこで弟子の暁烏敏(あけがらす はや)らとともに、明治34(1901)年に『精神会』という雑誌を創刊し、その第1号に「精神主義」という論文を寄稿しました。その同じ明治34年に田中智学は「日蓮主義」という言葉を造語し、国柱会(当時・立正安国会)の機関誌「妙宗」に発表しています。ともに明治末から大正、昭和初期にかけて、知識人や若者を中心に大きな影響を与えた思潮となりました。賢治やトシ、父の政次郎たちがこの二つの「主義」の間で葛藤したことを思いながら、この浩々堂の記念碑を見ていると、感慨深いものがありました。
参考文献・出典