宮沢賢治の『春と修羅』の冒頭にある「序」には、大正13(1924)1月20日の日付があります。この年の4月20日に自費出版されたこの作品集の最後に「序」は全体の総括として記され、次のような言葉で始まります。
わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です/(あらゆる透明な幽霊の複合体)/風景やみんなといつしよに/せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です/(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
これらは二十二箇月の/過去とかんずる方角から/紙と鉱質インクをつらね/(すべてわたくしと明滅し/ みんなが同時に感ずるもの)/ここまでたもちつゞけられた/かげとひかりのひとくさりづつ/そのとほりの心象スケツチです

わが国で電燈が普及したのは明治末から大正時代にかけてです。明治29年に生まれた賢治は、幼いころに初めて電燈を見て、おそらく鮮烈な印象をもったことでしょう。この頃の電燈はタングステン電球で、振動に弱く明滅が今より多く感じられたそうです。「序」で賢治は、22か月前に作品「春と修羅」で「修羅」と定義した自己を、「有機交流電燈のひとつの青い照明」と言い換えています。しかも、自分だけでなく「風景やみんな」もいっしょに明滅していると言うのです。彼は5年前の手紙に、「石丸先生も保阪さんもみな私の中に明滅する。みんなみんな私の中に事件が起る」と書いています。盛岡高等農林学校時代の恩師(石丸文雄)が亡くなったことを、友(保阪嘉内)に知らせる文章です。彼にとって、人は「せはしくせはしく明滅」する現象として捉えられているのです。
人を明滅する存在と捉える彼の思想はどこから来たのでしょうか。私は、前回述べたように、彼が15歳の時に受けた島地大等の「大乗起信論」についての講義の影響があると考えます。「大乗起信論」は大乗仏教とはなにかということを、理論と実践の両面から、唯心論の立場で簡潔に論述した経典で、人間の心を「心真如(しんしんにょ)」と「心生滅(しんしょうめつ)」の二つの部門に分けます。心真如は心の真実のあり方で、仏性とか菩提心ともよばれます。心生滅は泣いたり笑ったり、悲しんだり喜んだりする、まさに明滅しているような我々の現実の心(煩悩)です。そしてその両者は、それぞれ一切のものを包みこむ同じ一つの心の両面で、切り離せない一体のものであるとされています。妹のトシが『自省録』の中で、「大乗の菩提即煩悩の世界」と記していたのもこのことを指していたのでしょう。「序」はさらに次のように続きます。
これらについて人や銀河や修羅や海胆は/宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら/それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが/それらも畢竟こゝろのひとつの風物です/たゞたしかに記録されたこれらのけしきは/記録されたそのとほりのこのけしきで/それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで/ある程度まではみんなに共通いたします/(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/ みんなのおのおののなかのすべてですから)
「大乗起信論」は心真如について、言語では表現できないすべてのものの共通の根元(一法界)であるとし、海の水にたとえています。それに対し心生滅は風によって波立つ水面にたとえられています。個々の存在としてあらわれる心生滅は、表面上は多種多様に現れる波のようなものですが、その底にある海はひとつにつながっているのです。賢治のいう「人や銀河や修羅や海胆」が飲食や呼吸をしながら「本体論」を考えるというのは、様々な現象の底にある本当の世界を求め思い悩むということであり、まさに心生滅のありさまです。賢治は心生滅を心の風物として記録(心象スケッチ)することによりその底にある根元、すなわち心真如に至ることができると考えたのではないでしょうか。それが、たとえ言語で表現できないゆえに「虚無」としかいいようがなかったとしても、すべてのものに共通している根元のはずです。そこから、「すべてがわたくしの中のみんなであるやうに みんなのおのおののなかのすべてですから」という思想が登場してきます。
賢治と同様ウィリアム・ジェームズに影響を受け、仏教思想をベースに独自の哲学体系を築いた西田幾多郎は、「私と汝」という論文で次のように述べています。
自己は自己自身の底を通して他となるのである。何となれば自己自身の存在の底に他があり、他の存在の底に自己があるからである。私と汝とは絶対に他なるものである。私と汝とを包摂する何らの一般者もない。しかし私は汝を認めることによって私であり、汝は私を認めることによって汝である、私の底に汝があり、汝の底に私がある、私は私の底を通じて汝へ、汝は汝の底を通じて私へ結合するのである、絶対に他なるが故に内的に結合するのである。
ちょっと難解な文章です。しかし、私なりに解釈してみましょう。子供の頃の私と今の私では、物質的にも記憶や知識においても全くの別人なのですが、なぜか同じ私です。記憶をすべて失っても私は私であること、生物としての私の体の全構成物質は脳細胞のそれも含め日々変化していることに思い至ると、そこに見出される「私」にはもはや自他の区別はありません。そのあらゆる属性を取り払っても残る「私」という現象は、他の人の「私」と区別できません。私は私の底にある共通の「私」を通じて他者とつながるのです。その自他の区別のない世界を心真如の領域とすると、銀河や修羅や海胆とも一体になれるのかもしれません。
(なお、賢治が西田の著作を読んでいたという資料はありません。しかし、賢治の「林学生」という作品のなかに「天台、ジェームスその他によれば!」ということばがあります。また、賢治の作品に先立って西田の著書『善の研究』に「心象」という語があることから、関心を持っていた可能性はあります。実際、賢治は岩波茂雄宛の書簡(1925.12.20)に、自分の本と「あなたがお出しになる哲学や心理学の立派な著述」と交換してほしいと書いています。岩波書店は1917年の『自覚における直観と反省』以来、西田の著作を出版しています。「私と汝」は『春と修羅』出版以後、1932年の論文ですが、賢治の思想を理解するうえで参考になると思い引用しました。)
賢治は『春と修羅』の「序」については相当自信を持っていたようで、森佐一宛の手紙に「序文の考を主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画」したと記しています。自分の心の中の修羅の怒りに歯ぎしりし、妹の死に慟哭し、心の底から湧き上がる妄想に振り回され、鹿踊りに子供のように感動する賢治の心は、まさに心生滅(煩悩)の姿です。彼の心象スケッチを読むということは、賢治の心を追体験するということです。その言葉を自己の心中の声として読むとき、読み手の心は賢治の心と同化します。彼は徹底して心生滅をスケッチすることにより、その底にある言語で表現できない心真如を、読み手にともに感じて欲しかったのだと考えます。すべての人が共通の根元をもつと考えれば、人は争うことをやめます。私が私自身をいじめたり、殴ったりするのは意味のないことですから。しかし、『春と修羅』を「宗教家やいろいろな人たちに」贈ったのですが誰も理解してくれなかったと、彼は同じ手紙で嘆いています。
賢治は『春と修羅』出版の2年後、花巻農学校を退職し羅須地人協会を設立します。『春と修羅』では人々にわかってもらえなかった「序」の思想を、日蓮主義者らしく社会的実践の中で実現しようとしたのかもしれません。
参考文献・出典