2024-01-01から1年間の記事一覧
「銀河鉄道の夜」は、宮沢賢治が『春と修羅』や『注文の多い料理店』を出版した1924(大正13)年から、37歳で亡くなる1933(昭和8)年までの約十年の間、4次にわたり改稿しながら未完成に終わった作品です。そのため4種類の原稿が残されており、その跡をたど…
1929(昭和4)年4月、花巻の実家で療養していた宮沢賢治は、一関市で石灰を採掘する東北砕石工場を経営していた鈴木東蔵の訪問を受け、石灰を肥料として売れないかという相談を受けます。盛岡高等農林学校の研究生時代の土性調査を通じて、岩手県の酸性土壌…
宮沢賢治は「風野又三郎」という童話を二つ書いています。最初の作品は1924(大正13)年、『注文の多い料理店』を出版した頃に作られましたが、生前には発表されませんでした。次のような独特な文章で始まります。 どっどどどどうど どどうど どどう、 ああ…
1920(大正9)年、賢治が国柱会に入信した同じ年に、石原莞爾(1889-1949)が入信しています。家出をして国柱会の門をたたいた賢治は素っ気ない応対を受けましたが、エリート軍人であった石原は厚遇されたようです。国柱会は日蓮宗の僧侶であった田中智学(1861…
宮沢賢治は1925(大正14)年6月25日に、かつての親友保阪嘉内に宛てた手紙に次のように記しています。 お手紙ありがとうございました。 来春はわたくしも教師をやめて本当の百姓になって働きます。 嘉内の年譜を見ると、彼は同年3月に結婚し5月に新聞社を退…
宮沢賢治が「心象スケッチ」と呼んだ詩や童話は、彼がめざした「或る心理学的な仕事」の準備のために記したものでした。そして、その仕事は「歴史や宗教の位置を全く変換」する『春と修羅』の「序」の思想を実現するためのものだと、賢治は2つの手紙で述べて…
宮沢賢治は『春と修羅』を自費出版した翌年、1925年12月20日付で岩波書店の創業者岩波茂雄宛に、次のような書き出しで始まる手紙を出しました。 とつぜん手紙などをさしあげてまことに失礼ではございますがどうかご一読をねがひます。わたくしは岩手県の農学…
今から100年前の1924年12月に、宮沢賢治は童話集『注文の多い料理店』を出版しました。 『注文の多い料理店』の復刻本 『春と修羅』は自費出版でしたが、童話集『注文の多い料理店』は、盛岡高等農林学校の1年後輩の及川四郎と近森善一が作った光原社という…
宮沢賢治の『春と修羅』の冒頭にある「序」には、大正13(1924)1月20日の日付があります。この年の4月20日に自費出版されたこの作品集の最後に「序」は全体の総括として記され、次のような言葉で始まります。 わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の…
宮沢賢治は1911(明治44)年8月、宮沢一族が中心となって花巻近郊の大沢温泉で毎年行っていた夏期講習会で、島地大等(しまじだいとう、1875~1927)による「大乗起信論」の講話を聴いています。 大沢温泉には賢治も泊まった200年前の建物が残っています 大等…
『春と修羅』が出版された際に、賢治によって削除された「青森挽歌 三」という作品に、以下のような一節があります。最愛の妹トシが死んだ翌月、雪の降る花巻の街を歩いていた賢治は、トシの幻影を見たのです。 その藍いろの夕方の雪のけむりの中で 黒いマン…
宮沢賢治の「青森挽歌」は、次のような言葉で始まります。 こんなやみよののはらのなかをゆくときは 客車のまどはみんな水族館の窓になる (乾いたでんしんばしらの列が せはしく遷つてゐるらしい きしやは銀河系の玲瓏レンズ 巨きな水素のりんごのなかをか…