宮沢賢治の2つの謎

自作の詩や童話を「心象スケッチ」と呼んだ真の目的と、日蓮宗(国柱会)への改宗の謎を考えます。

島地大等と大乗起信論

宮沢賢治は1911(明治44)年8月、宮沢一族が中心となって花巻近郊の大沢温泉で毎年行っていた夏期講習会で、島地大等(しまじだいとう、1875~1927)による「大乗起信論」の講話を聴いています。

大沢温泉には賢治も泊まった200年前の建物が残っています

大等はこのとき36歳、後に東京帝国大学等でインド哲学を教える新進気鋭の仏教学者で、盛岡の願教寺の住職でした。賢治は15歳、13歳の妹トシも参加していたことでしょう。彼女が「自省録」のなかで「大乗の菩提即煩悩の世界に憧憬と理想」と記していることを以前紹介しましたが、この「大乗」は「大乗起信論」のことだと思われます。

賢治はその後、1914(大正3)年に大等が編集した『漢和対照妙法蓮華経』に出会います。父の政次郎が友人から贈られたものを、賢治が読んだのでしょう。全集の年譜には「異常な感動を受け…生涯の信仰をここに定める」と記されています。そして、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に進学してから、大等が願教寺で8月の早朝(5時~7時)に行っていた仏教講話会に参加しています。聴講者が300から400名もあった人気の講話会だったようです。その情景を賢治が詠んだのが次の短歌です。

本堂の

高座に島地大等の

ひとみに映る

黄なる薄明

8月の早朝の日の出の空が、本堂の奥に座る大等の瞳に映ったのでしょうか。

願教寺は盛岡市北山一丁目にあり、賢治が通った農林学校から1.5㎞ほどのところにあります。その頃の本堂は1909(大正13)年に火災で焼けてしまい、現在の本堂は翌年再建されたものです。

現在の願教寺

ちなみに農学校の本館は現在も岩手大学上田キャンパスに残っており、賢治関係の資料も展示されています。

岩手大学農学部 農業教育資料館(重要文化財

安山岩でできた、賢治のモニュメントも建っていました。

賢治は父宛の手紙に、前回紹介した怪しげな静座法の指導者佐々木電眼を、「島津(ママ)大等師あたりとも交際致しずいぶん確実なる人物」と紹介しており、父子ともに大等を尊敬していたのでしょう。ところが、その後賢治は父や大等の属する浄土真宗から離れ、田中智学の国柱会日蓮宗の在家団体)へと改宗することになります。法華経日蓮宗だけでなく、もともと天台宗における根本経典であり、その天台教学の権威である大等に身近に接していたのですから、法華経を学ぶだけならわざわざ国柱会に改宗しなくても良かったはずです。しかし、浄土真宗が主に個人の心の救済を重んじるのに対し、日蓮の思想は現実の社会をあるべき理想社会に変革しようという傾向を強く持っています。田中智学は既存の日蓮宗がその日蓮の思想から離れていることから、宗門改革を図り日蓮主義を標榜した人物です。大等は「明治宗教史」という著書の中で、維新後の廃仏毀釈や寺請制度の廃止により危機に陥った仏教界に現れた両思想について、次のように述べています。

この重大なる危機に当たりて、仏教会より顕れた、新信仰が二つある。一は、精神主義であって、他は、日蓮主義である。前者は、明治三十年、清沢満之の唱ふるところであって、後者は、明治三十四年、高山樗牛の唱ふるところであった*1この二個の信念は、明治宗教史に顕はれた、もっとも重要な、主義信念であって、当代に於ける・・・代表的思想である。

賢治は、父政次郎のように浄土真宗の「精神主義」に傾倒し、仏教を心の糧として現実社会と折り合いをつけていこうとする生き方に反発していました。「日蓮主義」については国粋主義的な傾向を持つためか最初は嫌悪感を持っていたようですが、社会変革をめざす姿勢にやがて惹かれていったようです。

一方大等は、浄土真宗本願寺派西本願寺)の僧侶のためか「日蓮主義」とも、清沢満之真宗大谷派東本願寺)から起こった「精神主義」とも距離を置いていたようで、自らは「生々(せいせい)主義」という独自の主義を唱え、次のように述べています。

自他ともに生き生かさるる道を私は生々主義ともうします。・・・。これを社会の上に見るも、隣人互いに相生き相生かすの道であり小作人と地主、労働者と資本家、凡て互いに相生き相生かすを理想とするものである。商人と估客、先生と学生、利害の相関するものは勿論、相反するものに至るまで、相等しく生き相生かすの道である。

「生々主義」を大等が賢治らに説いたかどうかはわかりませんが、後年小作人たちの結成した労農党のシンパになる賢治には、何とも煮え切れないきれいごとの思想と思えたことでしょう。賢治はやがて大等との関係を断ち、1920(大正9)年国柱会入会前後からは題目を唱えて花巻の街を練り歩いたり、父を折伏しようとしたりして日蓮主義者として行動し、翌年には家出をして東京の国柱会で布教活動に参加するに至りました。

しかし、花巻に帰ってから、1922(大正11)年に書き始めた『心象スケッチ 春と修羅』には日蓮主義のにおいがあまり感じられないのです。梅原猛も『地獄の思想』の中で「賢治の思想は、教えの父、日蓮より、教えの祖父、最澄の思想に近いのではないかと思う。賢治には日蓮のような予言者的獅子吼はないし、あの排他的な法華経信仰はない。賢治は、修羅の世界への凝視と利他の思想の悲しさにおいて、教えの祖父、最澄の直接の後継者であるようにみえる」と記しています。『春と修羅』の「序」には、梅原の言うように最澄の天台思想が感じられるとともに、天台と深い関係にある「大乗起信論」の思想が強く感じられます。次回はその「序」について、大乗起信論を参考に読んでみたいと思っています。

賢治は晩年、と言っても1930(昭和5)年34歳の頃、表紙に「文語詩篇」と自ら書いたノートに「八月 島地大等 白百合の花 海軍少佐」と記しています。前のページに「1911」とありますので、1911(明治44)年に大沢温泉で聴いた大乗起信論の講話を思い出していたのでしょう。そのころ大等は、1927(昭和2)年、51歳ですでに亡くなっていました。賢治にとって大等は生涯忘れられない人物の一人だったのでしょう。

ところで、大等は1902(明治35)年、浄土真宗本願寺派法主大谷光瑞が率いた大谷探検隊の一員として、インドや中国の仏教史蹟を調査してきました。そのとき探検隊が西域から持ち帰った遺物が、東京国立博物館にありますので先日撮影してきました。

有翼人物像 3~4世紀 土製造彩色 中国、ミーラン第5寺址

衆人奏楽図 10~11世紀 土壁彩色 中国、ベゼクリク石窟 

賢治には、「雁の童子」「インドラの網」「マグノリアの木」といった西域を題材とした童話があります。遺物の絵からは、賢治の童話が聞こえてくるような気がします。大等から、大谷探検隊の話しを聴いたことがあったのかもしれませんね。

 

参考文献・出典

島地大等『生々主義の提唱』慈悲の光社(国立国会図書館デジタルコレクション)

同「明治仏教思想史」『明治宗教文学集㈠』筑摩書房

【新】校本宮澤賢治全集第十六(下)年譜篇 筑摩書房

宮沢賢治全集3,10』ちくま文庫

梅原猛『地獄の思想 日本精神の一系譜』(中公新書)

 

 

 

 

 

*1:日蓮主義」の名付けの親は智学であったが、世に広めたのは樗牛だった。大等は智学を嫌ってあえてこう書いたのかもしれない。