宮沢賢治の2つの謎

自作の詩や童話を「心象スケッチ」と呼んだ真の目的と、日蓮宗(国柱会)への改宗の謎を考えます。

「青森挽歌」 魂のゆくえ

宮沢賢治の「青森挽歌」は、次のような言葉で始まります。

こんなやみよののはらのなかをゆくときは

客車のまどはみんな水族館の窓になる

   (乾いたでんしんばしらの列が

    せはしく遷つてゐるらしい

    きしやは銀河系の玲瓏レンズ

    巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)

最近の水族館では、巨大な水槽や透明なチューブの中を魚やイルカが泳いでいますが、昔の水族館は小さな水槽が並んでいるだけだったように記憶しています。そんな昔風の⦆水族館を探して、先日井の頭自然文化園の水生物園に行って撮ったのが次の写真です。確かに客車の窓のように見え、しばらく立っていると銀河鉄道に乗っているような気がして来ました。

賢治は、新校本全集の年譜によれば、1923(大正12)年7月31日花巻駅発21時59分の夜行列車に乗り、青森・北海道経由樺太に向けて出発しました。農学校の教え子の就職を盛岡中学の先輩に頼みに行くのが目的でしたが、妹トシの死後のゆくえを問う傷心旅行でもありました。8月12日に花巻に戻るまでの日付のある作品のうち、5篇を『春と修羅』に載せ、「オホーツク挽歌」という章にまとめています。「青森挽歌」は全篇252行の長く難解な詩ですが、賢治の思想をたどるうえで欠かせない作品です。彼の魂の叫びと悶えを、じかに感じられる心象スケッチです。

この作品が難解な理由の一つは、異なる時間や人格が交錯していることではないでしょうか。近年の脳科学者の分離脳の研究や精神医学の世界では、人間の心の中には多様な人格が潜んでいて、正常な状態ではそれらは統合されて一つの人格を形成していると言われています。賢治はあえてその統合を開放し、彼の目的とした「心理学的な仕事」の準備としての心象スケッチを行ったのでしょう。「青森挽歌」ではそれらの異なる人格が、カッコと二重カッコによって区分けされています。その例として、102行目から125行目までを引用します。

万象同帰のそのいみじい生物の名を

ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき

あいつは二へんうなづくやうに息をした

白い尖つたあごや頬がゆすれて

ちひさいときよくおどけたときにしたやうな

あんな偶然な顔つきにみえた

けれどもたしかにうなづいた

   ⦅ヘツケル博士!

    わたくしがそのありがたい証明の

    任にあたつてもよろしうございます ⦆

 仮睡硅酸の雲のなかから     

凍らすやうなあんな卑怯な叫び声は……   

 (宗谷海峡を越える晩は          

  わたくしは夜どほし甲板に立ち      

  あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり

  からだはけがれたねがひにみたし

  そしてわたくしはほんたうに挑戦しよう)

たしかにあのときはうなづいたのだ

そしてあんなにつぎのあさまで

胸がほとつてゐたくらゐだから

わたくしたちが死んだといつて泣いたあと

とし子はまだまだこの世かいのからだを感じ

ねつやいたみをはなれたほのかなねむりのなかで

ここでみるやうなゆめをみてゐたかもしれない

素直に順番に読んでいくと、何が何だか分からなくなります。実際、研究者によって解釈が分かれているようです。まずは、カッコと二重カッコの部分を飛ばして読んでみましょう。「万象同帰のそのいみじい生物の名」というのは、『宮沢賢治語彙辞典』によれば法華経を「万象同期の(あらゆる現象が寄って立つ)生命体としてとらえたもの」とありますので、前回述べたトシの臨終のときに賢治と次妹シゲがお題目(南無妙法蓮華経)をとなえたことに符合します。仮睡珪酸(かすいけいさん)というのは、同辞典によれば賢治の造語で「現実と非現実との混濁した」心象の状態を表しているとされており、深夜の夜行列車でうたたねをしながら考え込んでいる賢治と、臨終のトシの消えかかる意識の様子が重ね合わせて表現されているのでしょう。そして、死⦅に行くトシにお題目を無理強いするように叫んだことを、「あんな卑怯な叫び声」と悔やんだのでしょうか。またその叫びは、この詩の最後の方にある「⦅みんなむかしからのきょうだいなのだから / けっしてひとりをいのってはいけない⦆」という言葉にも反しています。しかし、そのお題目に応えてトシは確かにうなずいたのだと考えなおし、その魂は死んだ後もしばらく熱や痛みから解放されてその場にいたのだと夢想するのです。私の解釈の当否は別にして、一応文脈をたどることができました。

そのような賢治の意識の流れの中に、唐突に「ヘッケル博士!」に続く言葉が二重カッコで挿入されています。エルンスト・ヘッケル(1834~1919)はドイツの生物学者で、唯物論的な立場からキリスト教の霊魂不滅説を否定しました。そうであれば輪廻転生を信じる賢治たちとは正反対の様ですが、ことはそれほど単純ではないようです。彼の著作『宇宙の謎』(1906)は当時の世界的ベストセラーで、幸いなことに賢治も読んだと思われる大正6年の邦訳を、国立国会図書館のデジタルライブラリーで読むことができました。それによると、ヘッケルは個人の死後の魂の存在は否定するもののスピノザに傾倒し、科学と宗教を融合した汎神論的な思想「一元的宗教」を主張したことが分りました。ヘッケルが唯物論の立場から科学と宗教の統合をめざしたのに対し、賢治は唯心論の立場からヘッケルの思想を自分なりに消化し発展しようとしたのではないでしょうか。

次いで、カッコ書きされた「宗谷海峡を越える晩・・・」の部分は、この作品の日時より2日後の8月2日23時30分稚内発、翌日7時30分着の連絡船でのできごとです。そこで、ヘッケルの「そのありがたい証明の任に」、「わたくしはほんたうに挑戦しよう」と述べているのです。まさに時間と空間を超えた、4次元的な作品なのです。つまり、この作品においては、主として「二重カッコ」は幻聴、「カッコ」は後の時間の視点から客観的に自分を見つめる声として挿入されているようなのです。

その後も、賢治はトシが死後天上に行ったのか地獄に落ちたのかという思いを行き来します。前回ご紹介した祖父宛ての手紙に、生前のトシが自身について「このままに死ぬ時は地獄にしか行けず候」とあったことも念頭にあったのでしょう。トシの地獄落ちを示唆する幻聴もたびたび登場します。しかし、賢治は輪廻からの解脱を説く「倶舎論」(※)を思い起こし、「あいつはどこへ堕ちようと/もう無上道に属してゐる/力にみちてそこを進むものは/どの空間にでも勇んでとびこんで行くのだ」と幻聴を否定します。実際、トシは父や賢治の天上への転生の願いに反し「またひとにうまれてくる」と言い、「あたしはあたしでひとりいきます」(いずれも花巻方言の賢治自身の標準語訳)と告げた強い女性だったのです。

そして、「青森挽歌」は次のような詩句で結ばれます。 

 ⦅みんなむかしからのきやうだいなのだから 
    けつしてひとりをいのつてはいけない ⦆

ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます

最後の賢治の言葉に反し、『春と修羅』の挽歌群はトシ一人への思いが中心になっているのは明らかです。それではこれらは無駄な作品なのでしょうか。そうではないでしょう。賢治は、悩み、疑い、悶える人間の心を、限りなくいとおしく大事なものと考えていたのではないでしょうか。かつて保阪嘉内宛の手紙で「みな私の中に明滅する」(1919年8月)と表現しています。悟りに至らず明滅する心も、悟りに至った仏性と呼ばれる心も、同じ人間の一つの現れなのです。彼はトシを思う自分の心を心象スケッチすることにより、人間の心、及び人間という現象の謎を解き明かそうとしたのではないでしょうか。その思想は、やがて『春と修羅』の作品群の最後に書かれた「序」によって、整理され提示されたと考えます。

 

(※)「倶舎論」について、賢治が何を思って言及したのか正確にはわかりません。ただ、その冒頭に著者のヴァスバンドゥ(世親)は「あらゆるしかたで、全ての闇を消滅し、輪廻の泥から人々を救い出す、かのまことの師(仏陀)に敬礼して『アビダルマの庫』という論書をわたくしは説こう。」(世界の名著2 大乗仏典)と書いており、六道輪廻からの解脱が「倶舎論」の主要なテーマと思われます。それゆえ、トシの転生先をあれこれ詮索し悩むことをやめろと「倶舎論」は言っていると、賢治は考えたのだと思います。

 

 

参考文献・出典

宮沢賢治全集Ⅰ』ちくま文庫

宮澤賢治語彙辞典』原子朗 筑摩書房

『新稿本 宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜編』筑摩書房

宮澤賢治 修羅への旅』萩原昌好 朝文社 

宮沢賢治 心象の宇宙論』大塚常樹 朝文社