宮沢賢治の2つの謎

自作の詩や童話を「心象スケッチ」と呼んだ真の目的と、日蓮宗(国柱会)への改宗の謎を考えます。

メーテルリンクと交霊術

春と修羅』が出版された際に、賢治によって削除された「青森挽歌 三」という作品に、以下のような一節があります。最愛の妹トシが死んだ翌月、雪の降る花巻の街を歩いていた賢治は、トシの幻影を見たのです。

 

その藍いろの夕方の雪のけむりの中で

黒いマントの女の人に遭った。

帽巾に目はかくれ

白い顎ときれいな歯

私の方にちょっとわらったやうにさへ見えた。

(それはもちろん風と雪との屈折率の関係だ。)

私は危なく叫んだのだ。

(何だ、うな、死んだなんて

いゝ位のごと云って

今ごろ此処ら歩てるな。)

又たしかに私はさう叫んだにちがひない。

たゞあんな烈しい吹雪の中だから

その声は風にとられ

私は風の中に分散してかけた。

雪の街のイメージ(奈良井宿にて撮影)

熱心な仏教徒として輪廻転生を信じる賢治は、トシの魂が死後もどこかにいて自分に信号を送ってくると考えていました。「青森挽歌」の中で、「なぜ通信が許されないのか/許されてゐる そして私のうけとつた通信は/母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ」と書いています。トシからの通信は、夢のように不確かではかないものだったようです。

トシは生前、祖父への手紙の中で死後の魂について懸命に考えていました。死の2年前彼女が書いた『自省録』の中にメーテルリンクの引用があるため、彼の『死後は如何』(栗原古城訳 玄黄社 1916年)を読んでいたといわれています。この本は国立国会図書館デジタルコレクションで読めますし、2004年にも『死後の存続』という書名で新たに翻訳出版されています。原題は「La Mort(死)」という単純なものです。メーテルリンクは、現在では『青い鳥』という童話風の戯曲の作家としてしか知らない人がほとんどでしょうが、1911年にノーベル文学賞を取った大作家であり、思想家としても有名だったようです。トシは日本女子大学の創設者である成瀬仁蔵の講義で学んだと思われます。

しかし、この『死後は如何』というのはちょっと不思議な本です。死について哲学的に論じるだけでなく、霊媒による交霊術を積極的に取り上げているのです。欧米では、1800年代後半から交霊術を科学的に取り上げようとする活動が盛り上がり、1882年にケンブリッジ大学の教授たちを中心に「心霊現象研究会(The Society for Psychical Research)」が設立され現在も活動を続けています。歴代会長にはウィリアム・ジェームズ、アンリ・ベルクソンがおり、会員にはカール・ユングコナン・ドイルまで名を連ねていました。

メーテルリンクはジェームズと一緒に交霊術を行い、何とジェームズの死後霊媒を通じその霊を呼び出したことを『死後は如何』で記しています。トシが、そしておそらくは賢治も読んだであろう『死後は如何』の翻訳者である栗原古城は夏目漱石の弟子であり、前回取り上げたヘッケルの『宇宙の謎』も翻訳していました。国立国会図書館デジタルコレクションにある『宇宙の謎』(玄黄社、大正6年)の巻末には『死後は如何』の広告が掲載されていました。(ちなみに『死後は如何』の巻末には『宇宙の謎』の広告がありました。)

国立国会図書館デジタルコレクションより https://dl.ndl.go.jp/pid/1244309 

「将来の世界を支配するものは心霊の学也」とおどろおどろしいキャプションが付いています。しかし、その他の広告ではトルストイセネカ、エマーソン、「志那絵画史」といった固い内容の本が載っているので、玄黄社は「とんでも本」を出す出版社ではなかったようです。

日本でも明治41(1908)年に京都で人文書院の創設者渡邊藤交により創設された「日本心霊学会」を始めとして、心霊関係の団体がいくつも誕生しました。賢治やトシが生きた大正時代は、欧米も日本も心霊ブームだったのです。霊能者を使った千里眼実験で有名な、東大教授(後に休職)福来友吉も活躍していました。心霊研究と関係して流行したのが催眠術です。賢治自身、盛岡中学校時代、催眠術を使った静座法を指導する佐々木電眼という人物に心酔し、家に連れて来ています。このとき、電眼の催眠術でトシはすぐに催眠状態になりましたが、父政次郎は「いつまで経っても平気で笑っていたので、遂に電眼はあきらめて、雑煮餅を十数杯平らげて、山猫博士のように退散した」と、賢治の弟清六が『兄のトランク』の中で紹介しています。

ウィリアム・ジェームズは夏目漱石西田幾多郎らに大きな影響を与えた心理学者・哲学者で、賢治も「林学生」(『春と修羅 第二集』)という詩の中にその名を記しています。賢治はまた、「宗谷挽歌」(『春と修羅 補遺』)にメーテルリンクの作品の登場人物タンタジールの名を記していますし、ヘッケルについても前回述べたように「青森挽歌」に記しています。賢治の生きた時代、心霊研究や交霊術は現代のスピリチュアリズム以上に、文化人や若者たちの間で真剣に取り上げられていたようです。

最愛の妹トシを失いその魂の行方を探ることが、『春と修羅』後半の大きなテーマになっています。そこには、心霊研究とともに仏教の中有(ちゅうう)の思想が入り込んでいます。

中有とは「前世での死の瞬間から次の生存を得るまでの間の生存」のことで、「その期間は7日、49日、無限定などいくつもの説がある(『岩波仏教辞典』)」とされており、7日ごとに法要を営み四十九日を追善法要とする今日の葬儀の習慣のもとになっています。中国仏教では更に死者の次の生を定める審判を司る十人の王を定めています。有名な閻魔大王は35日目の審判を司る冥界の王の一人です。次の画像は東京国立博物館にある十王図の中の一つ、一周忌を担当する都市王(トシオウ)です。

「十王像(都市王)」室町時代・15世紀 絹本着色 東京国立博物館にて撮影

都市王勢至菩薩の化身とされ、1年間中有をさまよった魂に転生先を定める役割を担っています。トシの死から1年が過ぎたころ、『春と修羅』も最後の作品「冬と銀河ステーション(1923.12.10)」で幕を閉じます。妹の死という個人的な体験を、心象スケッチを紡ぐことにより深めていった賢治は、その翌月『心象スケッチ 春と修羅』の「序」を書くことにより普遍的な体験として昇華することになります。

そのことを示す言葉が、出版されなかった『春と修羅 第二集』の「この森をとおりぬければ」という作品に残されています。

 

鳥は雨よりしげくなき

わたくしは死んだ妹の声を

林のはてからきく

  ・・・・それはもうそうでなくても

      誰でも同じことだから

      また新しく考え直すこともない・・・・

 

妹の死を自らの思想を深める糧とした賢治は、心象スケッチの目的である「或る心理学的な仕事」の実現に向けて、さらに苦難の歩みを進めていきます。

 

参考文献と出典

メーテルリンク『死後の存続』山崎剛訳 (株)めるくまーる

『「日本心霊学」研究』栗田英彦編 人文書院

宮沢賢治全集Ⅰ』ちくま文庫