宮沢賢治の2つの謎

自作の詩や童話を「心象スケッチ」と呼んだ真の目的と、日蓮宗(国柱会)への改宗の謎を考えます。

稗貫農学校時代 家出青年が教師に 

大正10(1921)年12月、宮沢賢治は稗貫(ひえぬき)郡立稗貫農学校の教諭となりました。明治40年に開所した蚕業講習所が4月に衣替えしたもので、町の人々や隣の花巻女学校の生徒からは、「桑っこ大学」と呼ばれた小さな学校に、兵役に就いた者の後任として賢治は採用されました。でも、同じ年の1月に家出をした青年が、公立の学校の教師になれたというのはちょっと意外です。そもそも25歳の大人が「家出」というのは表現としてどうかと思い、『新校本 宮沢賢治全集』を調べてみたところ、当時の地元紙「岩手新報」の大正10年3月6日付け朝刊の次の様な記事が載っていました。

 

「花巻川口町に於ける素封家の息宮沢賢治(二五)君は大正七年盛岡高等農学校を優等で卒業した秀才だが、遂四五日前の深夜飄然と家出し爾来行衛不明なので仝町では此頃の話題として種々な取沙汰している。同君は・・・常に最優等で同級生間に君子人の如く尊敬を払われていた。それに酒も飲まず煙草は喫わず女の話一つもないと云う石部金吉派に属する人間だと高農在学当時から同級生間の『変人』として取扱かはれていた。・・・・」

 

家出ではなく、せめて「出奔」とでも書いてくれれば良いものを、新聞に家出と書かれたうえ「変人」扱いされては、家族や本人にはつらいものがあったと思います。先にご紹介した岩手民報のトシのゴシップ記事といい、花巻という地方都市の名士の一族に生まれた者の不運ということでしょうか。良くも悪くも周りから注目されていたようです。郡立稗貫農学校は大正12年に県立花巻農学校へと昇格しますが、地元の有力者であった賢治の母の兄弟の宮澤恒治はその運動の中心人物でした。また、恒治の兄直治は後に花巻町長になっています。町の政治にもかかわる一族に属するということで、家出には目をつぶって教員に採用されたのかもしれません。

 

賢治は後に教え子に宛てた手紙に「農学校の四年間がいちばんやりがいのある時でした」と記しています(書簡番号260)。実際、『春と修羅』と『注文の多い料理店』は、この時期に出版されています。

花巻の宮沢賢治記念館にて撮影



この時期、不思議なことがひとつあります。大正11(1922)年1月から大正14(1925)年2月までの3年間、最初の年の年賀状を除いて1通の手紙も残っていないのです。賢治をめぐる人々は、驚くほど彼の手紙をきちんと保管していました。親友保阪嘉内宛の手紙73通は、2008年にテレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」に出品され、1億8千万円という鑑定額が付いたほど、賢治の手紙には市場価値があります。もしどこかに手紙が残っていれば、きっと世に出ていたはずです。ですから、彼は実際にほとんど手紙を書かなかったのでしょう。賢治の置かれた状況や内心を知ることができる手がかりとして手紙は貴重な資料ですので、彼の代表作が書かれたこの時期に手紙が存在しないことは残念なことです。その代わり、彼が心象スケッチと名づけた口語詩には、その末尾に日付が記されています。賢治は自作の詩を何回も推敲し改稿していますので、必ずしもその日付に書かれたということではないのですが、なんらかの原体験があった日と言われています。『春と修羅』の冒頭を飾る心象スケッチ「屈折率」には、稗貫農学校教員となった翌月、「1922.1.6」という日付が記されています。

 

    屈 折 率

 七つ森のこっちのひとつが

 水の中よりもっと明るく

 そしてたいへん巨きいのに

 わたくしはでこぼこ凍ったみちをふみ

 このでこぼこの雪をふみ

 向こうの縮れた亜鉛の雲へ

 陰気な郵便脚夫のやうに

   (またアラツデイン 洋燈とり)

 急がなければならないのか

             (1922.1.6)

  

明るい世界を通り過ぎて雪を降らせる暗い雲の方へ、アラジンの魔法のランプを取りに行くのだという決意を述べている、明るさと暗さが交錯している作品です。このブログの最初の日に、口語詩は心象スケッチであり、彼が重要と信じる「或る心理学的な仕事」の「支度」であると述べた大正14年の賢治の手紙を紹介しました。その「仕事」はこれから取りに行くアラジンの魔法のランプがあってこそ成し遂げられるものであり、その「支度」はでこぼこの雪道を歩かなければならぬつらいものになるかもしれぬと賢治は感じ、「陰気な郵便脚夫」のように急いで進もうという覚悟をしています。そして、その予感は、11か月後信仰の先達であるトシの死として現実となるのです。

 

参考文献

新校本宮沢賢治全集16巻下 補遺・伝記資料編 筑摩書房

宮澤賢治全集Ⅰ ちくま文庫