宮沢賢治の2つの謎

自作の詩や童話を「心象スケッチ」と呼んだ真の目的と、日蓮宗(国柱会)への改宗の謎を考えます。

「真空溶媒」とシュルレアリスム

宮沢賢治の『春と修羅』には、彼が心象スケッチと呼んだ70編の口語詩が、8つのパートに分けておさめられています。前回ご紹介した「春と修羅」に続くパートに、「真空溶媒」というちょっとシュールな作品があります。本文248行という、「小岩井農場」「青森挽歌」に続く長大な作品です。この作品は内容が超現実的であるばかりでなく、シュルレアリスムの「自動記述(オートマティスム)」や「デペイズマン」に似た手法が用いられています。何人かの研究者が、賢治の心象スケッチ全般についてシュルレアリスムとの類似を指摘していますが、この作品からはそのことが特に感じられます。「自動記述」は、あらゆる先入観を排して自動的に文章を書くことにより、無意識の思考やイメージを表出させる手法です。シュルレアリスム創始者アンドレ・ブルトンは、フロイト精神分析から自動記述を思い立ったとしていますが、賢治も又フロイトに関心があったことを知人の森荘己池が『宮沢賢治の肖像』に書き残しています。ちなみに、ブルトンと賢治は1896年の同年に生まれ、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』は『春と修羅』と同じ1924年に出版されています。このことは、賢治がシュルレアリスムから直接の影響を受けていないことを示すと同時に、世界の文学や思想の動向と無縁でなかったことを示しています。天沢退二郎新潮文庫版『宮沢賢治詩集』の解説で、ジョイスプルーストブルトンといった例を挙げ「1920年代の思潮の渦の中で、賢治の心象スケッチの方法が誕生」したと述べています。花巻という地方都市にいながら、賢治は世界につながっていたのです、

彼が、まだ日本に伝わっていなかったシュルレアリスム的な手法を採用し心象スケッチを作成した理由を問うことは、このブログの目的である「心象スケッチ」の真の目的を追求する上で不可欠と考えます。

 

さて、作品を読んでいきましょう。何分長い作品ですので、大幅に省略し、改行は斜線で記すことにします。原文の味わいが損なわれることをご容赦ください。

副題にドイツ語で「Eine Phantasie im Morgen(朝の幻想)」とあり、次のように始まります。

融銅はまだ眩めかず / 白いハロウも燃えたたず

地平線ばかり明るくなつたり陰つたり / はんぶん溶けたり澱んだり

しきりにさつきからゆれてゐる

おれは新らしくてパリパリの / 銀杏なみきをくぐつてゆく

その一本の水平なえだに / りつぱな硝子のわかものが

もうたいてい三角にかはつて / そらをすきとほしてぶらさがつてゐる

けれどもこれはもちろん / そんなにふしぎなことでもない

 

太陽の光を科学者らしく「溶けた銅の赤い光」に例え、それがまだ輝かず、ハロー(光輪)も見えないまだ薄暗いイチョウ並木を、「おれ」は歩いていきます。すると、イチョウの木の枝に三角形をしたガラスの若者がぶら下がっています。シュルレアリスムの「デペイズマン」という手法は、「ある物を日常的な環境から異質の環境に転置し,その物から実用的性格を奪い,物体同士の奇異な出会いを現出させる。この方法により人々の感覚の深部に強い衝撃を与えること」(ブリタニカ国際百科事典より)であり、ダリやマグリットの絵画が思い浮かびます。イチョウの枝に「硝子の若者」がぶら下がっていることはまさに異質なものの出合いなのですが、賢治は「けれどもこれはもちろん そんなにふしぎなことでもない」と述べて、「真空溶媒」の怪しげな作品世界にいざないます。

賢治が銀杏の水平な枝に見た硝子の若者は、賢治自身の姿なのかもしれません 
上野公園の銀杏並木にて撮影

2マイルほども歩いてイチョウ並木を抜けていくと夜が明けていき、丸められた雲が「パラフィンの団子」になって青い空に静かに浮かんでいます。

むかふを鼻のあかい灰いろの紳士が / うまぐらゐあるまつ白な犬をつれて

あるいてゐることはじつに明らかだ

 (やあ こんにちは)/(いや いゝおてんきですな)

 (どちらへ ごさんぽですか / なるほど ふんふん ときにさくじつ

  ゾンネンタールが没くなつたさうですが / おききでしたか)

 (いゝえ ちつとも / ゾンネンタールと はてな

 (りんごが中つたのださうです)

 

「ゾンネンタール」については、ドイツ語に直訳して「太陽の谷」のこと、あるいはオーストリアの俳優の名前とする説がありますが、賢治も「ゾンネンタール はてな」と書いているのですから、あまり気にすることもないでしょう。

みろ その馬ぐらゐあつた白犬が / はるかのはるかのむかふへ遁げてしまつて

いまではやつと南京鼠のくらゐにしか見えない

 (あ わたくしの犬がにげました)/(追ひかけてもだめでせう)

 (いや あれは高価のです / おさへなくてはなりません/さよなら)

苹果の樹がむやみにふえた / おまけにのびた

おれなどは石炭紀の鱗木のしたの / ただいつぴきの蟻でしかない

 

鼻の赤い灰色の紳士と話していると馬のように大きな白犬が逃げ出し、南京鼠のように小さく見えるほど遠くに行ってしまい、紳士もまた犬を追いかけて行きます。すると、「おれ」もまた「一匹の蟻」の大きさまで縮小してしまい、しかもおよそ3億年前の石炭紀の、その石炭のもとになった今は存在しない鱗木(巨大なシダ植物)の下に立っています。賢治は「おれ」についても、心の中の対象として見ているのです。前回取り上げた「春と修羅」の「おれ」は賢治自身であり、「おれはひとりの修羅なのだ」と自己を定義していましたが、「真空溶媒」の「おれ」は、作品中には登場しない〈私〉が見た心の中の一人物なのです。『春と修羅』の70編の心象スケッチの中で、自分のことを「おれ」と一貫して表現しているのはこの2作品だけですが、両者の「おれ」は明らかに異なるのです。

やがて昼になり、朝にはパラフィンだった雲が燃えだし「リチウムの紅い焔」をあげ、草は赤茶けた褐藻類に変わり「こここそわびしい雲の焼け野原」という地獄のような風景に変わります。すると「どうなさいました 牧師さん」と声をかける人物が登場し、「わたくしは保安掛りです」と自己紹介します。彼には「おれ」が牧師に見えるのでしょう。有害な硫化水素や無水亜硫酸のガスが流れてきて「おれ」の意識が遠のくと、保安掛りが時計を盗もうとします。やがて雨が降ってきて有毒ガスは溶け、「おれ」は正気に戻ります。保安掛りをどなりつけると、彼は「ただ一かけの泥炭」になり、四角い背嚢だけが残ります。ガスが雨で流され、赤茶けた草は「葉緑素を恢復し」、穏やかな風景が戻ります。

虹彩はあはく変化はゆるやか / いまは一むらの軽い湯気になり

零下二千度の真空溶媒のなかに / すつととられて消えてしまふ

それどこでない おれのステツキは  / いつたいどこへ行つたのだ

上着もいつかなくなつてゐる / チヨツキはたつたいま消えて行つた

恐るべくかなしむべき真空溶媒は / こんどはおれに働きだした

 

ここで、ようやく「真空溶媒」という語が出てきました。真空は溶媒のように作用して「おれ」を含むすべてを溶かしこんでしまうものと認識されています。零下二千度という、本来ありえない温度が、全てを吸い込むブラックホールのような負の印象を強めています。この詩から7年後、病に倒れた賢治は死を意識して「疾中」という一群の詩を書きます。その中のひとつに、「からだは骨や血や肉や/それらは結局さまざまな分子で/幾十種かの原子の結合/原子は結局真空の一体/外界もまたしかり/……/われ死して真空に帰するや/ふたたびわれと感ずるや」と記します。自分も世界も真空から生まれ真空に帰するという思想で、宇宙は「真空のゆらぎ」から生じたと主張する現代の量子論に通じるものを感じます。

やがて、赤鼻の紳士が犬を連れて戻ってきます。犬の種類を尋ねると、北極犬であり馬のように乗れることがわかります。「おれ」は北極犬を借りて東へ歩き出し青い砂漠を旅行し、冒頭のイチョウ並木に戻って来ます。すべてが輪廻のように繰り返す予感を残して、この心象スケッチは終わります。

おれはたしかに / その北極犬のせなかにまたがり / 犬神のやうに東へ歩き出す

まばゆい緑のしばくさだ / おれたちの影は青い沙漠旅行

そしてそこはさつきの銀杏の並樹 / こんな華奢な水平な枝に

硝子のりつぱなわかものが / すつかり三角になつてぶらさがる

この作品には1922年5月18日の日付が記されています。農学校の教員になって半年がたち、妹トシが亡くなる半年前です。生徒や同僚たちと安定した教員生活を続けながら、盛んに詩や童話を書いていたころです。賢治はこの作品で、かねてより考えていた思想を実験的に展開しようとしたのではないでしょうか。

賢治には父宛の手紙の中で「戦争とか病気とか学校も家も山も雪もみな均しき一心の現象に御座候」(大正7年、書簡番号46)と書き、友人の佐々木又治には「本当ニコノ山ヤ川ハ夢カラウマレ、寧ロ夢トイフモノガ山ヤ川ナノデセウ」(同年、書簡番号54)と述べる唯心論的・独我論的な傾向がありました。それを更に発展させ、保阪嘉内には「やがて私共が一切の現象を自己の中に包蔵することができる様になったらその時こそは高く高く叫び立ち上がり、誤れる哲学やご都合次第の道徳を何の苦も無く破って行かうではありませんか」(同年、書簡番号50)と書き送っています。これは、後に森佐一(森荘己池の本名)に宛てた手紙で『春と修羅』は「歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画」したものであるという主張(大正14年、書簡番号200)につながります。心象スケッチは単に自分の心情を詠った抒情詩ではなく、自動記述によって世界を新たに捉え直し再創造しようとした試みだったのです。しかし、妹トシの挽歌群の一部、率直に言って「真空溶媒」よりはるかに感動的な「松の針」等は、上記の心象スケッチの有りようからははずれているように思われます。この点は、改めて考察したいと思います。

「真空溶媒」を典型とする心象スケッチが、自分の心に浮かんでくる様々な象を自動記述的に記述したものであるとすると、それは口語詩に留まることはありませんでした。賢治は『注文の多い料理店』の広告文の中で、「この童話集の一列は実に作者の心象スケッチの一部である」と、童話もまた心象スケッチであるとしています。イチョウの木にぶら下がる三角形の硝子の若者を含め複数の人物が交錯する「真空溶媒」は、口語詩と童話の中間領域にあって、両者に共通の心象スケッチの秘密を垣間見させてくれる作品です。でも、あまり微細に読み解こうとすることは、かえって深みにはまることになるような気がします。賢治自身、『注文の多い料理店』の序で「なんのことだか、わけのわからないところあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです」と告白しています。自動記述による心象スケッチは、著者さえ気づかぬ新たな世界を創造する可能性を秘めています。童話も小説も、更に広く芸術というものは、究極のところ論理的な言葉では説明出来ないことを表現しようとするものです。賢治のめざしたものも、まさにそのようなものだったと思います。

 

参考文献・出典

宮沢賢治全集1,2,9』ちくま文庫

宮沢賢治シュルレアリスム高橋世織 明治書院 

宮沢賢治 透明な軌道の上から』栗原敦 新宿書房

『新編 宮沢賢治詩集』天沢退二郎編 新潮文庫