宮沢賢治の2つの謎

自作の詩や童話を「心象スケッチ」と呼んだ真の目的と、日蓮宗(国柱会)への改宗の謎を考えます。

宮沢トシのヴァイオリン 「自省録」と二疋の白い鳥

賢治の二歳年下の妹トシが、高等女学校の生徒だった頃に使ったヴァイオリンが、花巻の宮沢賢治記念館に賢治のチェロと並んで展示されていました。日本で最初にヴァイオリンを量産販売した鈴木政吉が、明治40年に製作したものだそうです。

トシと小学校の同級生で賢治とも親しかった親族の関登久也は、トシのことを「頭の良いという点では、あるいは兄弟中随一ではなかったか」と書き残しています。要するに賢治より頭が良かったということです。父の政次郎はその誇らしい長女に、当時まだ珍しかったヴァイオリンを買い与えたのでしょう。しかし、そのことが彼女の人生に大きなトラウマを残す事件を引き起こすこととなりました。トシは16歳のときに女学校の若い音楽教師にヴァイオリンの課外レッスンを受け、恋心を抱きました。しかし、その教師は別の女生徒の方に関心を持っていたのです。そのことが誰かから漏れ、「音楽教師と二美人の初恋」というゴシップ記事が、「岩手民報」という地元紙に載ってしまったのです。実名は伏せられていましたが、宮沢一族は地元の名士でしたので、皆トシのこととわかったことでしょう。現代から見れば何ということもない出来事ですし、トシは後に母校の教員になるのですから、当時もあまり問題視されなかったのではないでしょうか。しかし、本人の心には大きな傷跡を残しました。

花巻高等女学校跡地 現在は生涯学習施設が建っている。
右手前の空地に、かつて賢治が勤務した稗貫郡立稗貫農学校があった。

トシは女学校を卒業すると、東京の目白にある日本女子大学に進みました。兄の賢治には中学卒業後進学することを許さず家業を継がせようとした父が、トシには進学を許したのは、傷心の娘をしばらく知らない土地に移そうという親心だったのかもしれません。賢治も、同じ年に盛岡高等農林学校(現岩手大学)に進学を許され、二人は図らずも高等教育においては同学年となりました。

 

日本女子大学は明治34(1901)年、成瀬仁蔵により創立された日本で最初の女子大です。トシはここで家政学を専攻するかたわら成瀬の提唱した「実践倫理」の講義を受け、宗教や哲学を学びました。そして、卒業後に花巻高等女学校の教師として帰郷するに際して、事件の総括と今後の自分の進む道を確かめる長文を、大正9(1920)年に記しました。それを、彼女の甥にあたる宮沢敦郎氏が昭和62(1987)年に母クニ(賢治の末妹)の遺品から発見し、「宮沢トシ自省録」と名付けて公表したのです。

その中に、次のような一文があります。ここでトシは自分のことを「彼女」と呼んで突き放して分析しています。

「一念三千の理法や天台の学理は彼女には口にするだに僭越ではあるけれども、彼女の理想が小乗的傾向を去って大乗の菩提即煩悩の世界に憧憬と理想とをおいてゐることは疑ひなかった。」

私はこの文章を読んだとき、トシが結核のため24歳で亡くなった翌年、賢治が書いた「白い鳥」(『春と修羅』所収)という詩の一節の意味がわかったような気がしました。

 

 二疋の大きな白い鳥が

 鋭くかなしく啼きかはしながら

 しめった朝の日光を飛んでゐる

 それはわたくしのいもうとだ

 死んだわたくしのいもうとだ

 兄が来たのであんなにかなしく啼いている

 

トシは一人なのに、白い鳥はなぜか二疋なのです。賢治もトシも参加したと思われる明治44(1911)年の花巻仏教会の夏期講習会で、島地大東は「大乗起信論」を講義しています。「大乗起信論」は難解な書物ですが、人間の心を「心真如」と「心生滅」に分け、両者はそれぞれ一切を包摂し切り離せないものであるとしています。トシの言う「菩提」は「心真如」に、「煩悩」は「心生滅」に相応します。トシは煩悩も菩提も両方とも自分であると受け止めたうえで再生すると、「自省録」の中で誓っているのです。我々は賢治を菩薩の様な人と思うことがありますが、本人は自分を修羅と呼んでいました。賢治もまた修羅であり菩薩であったと私は思います。亡くなった人の人格を思い起こすとき、その人が人生に悩み格闘した煩悩の側面を忘れたなら、それはもう幽冥境を異にすることになります。賢治にとって大きな白い鳥が二疋でなくなったときは、トシとの精神的な交流が完全に断たれることを意味したのではないでしょうか。

 

賢治はトシの自省録のように、自分の内心を客観的に論じる文書を残していません。ですから、このブログの初回に記した二つの謎が残ってしまったのだと思います。もし、トシが賢治より長生きしたら、賢治の思想をもっと分かりやすく解説してくれたのではないでしょうか。賢治はトシの死を悼む詩「無声慟哭」のなかで、自分のことを「信仰を一つにするたったひとりのみちづれのわたくし」と呼んでいます。先達はトシであり、「みちづれ」は賢治の方であったのです。(私はそのことに山根知子氏の著作を読んで初めて気付きました。)しかし、もしトシが賢治の死後まで生きていたら、『春と修羅』の中心をなすあのすばらしい一連の挽歌は生まれなかったことになってしまいます。それでは宮沢賢治という詩人も誕生しなかったかもしれないと思うと、トシはやはり先に死ななければならなかったのでしょうか。

牙彫鷹置物 金田兼次郎作 明治25年(1892)  東京国立博物館

先日、東京国立博物館象牙に彫られた白い鷹の置物を観てきました。賢治はたびたび上野の博物館を訪れていますので、この置物も見たかもしれません。上記の詩の鳥のイメージは本来は白鳥か白鷺と思いますが、この白い鷹の悲しそうな眼は、私にトシを連想させました。

 

参考文献

宮沢賢治 妹トシの拓いた道』山根知子著 朝文社

大乗起信論を読む』高崎直道著 岩波書店 他