宮沢賢治の2つの謎

自作の詩や童話を「心象スケッチ」と呼んだ真の目的と、日蓮宗(国柱会)への改宗の謎を考えます。

童話『ひかりの素足』と「にょらいじゅりょうぼん第十六」

賢治の童話に『ひかりの素足』があります。この童話の中に、賢治親子の宗教をめぐる論争の謎を解くヒントがあると思います。あらすじは次の通りです。

 

 父親と山の中にある炭焼小屋に泊まった一郎と弟の楢夫は、学校があるので父と別れて家に帰ることになります。幼い楢夫は、風の又三郎がおっかないことを言ったといって帰ることを渋るのですが、父親は夢でも見たのだろうと取り合いません。炭を引き取りに来た馬を引く人と一緒に小屋を出ますが、馬引きが途中で出会った人と長話を始めましたので二人だけで進みます。すると、にわかに吹雪になって道に迷い、雪山の中で動けなくなります。

 気が付くと、たくさんの子供たちが鬼に追い立てられている行進に出会い、ふたりもその中に連れ込まれます。道は瑪瑙の尖ったかけらでできていて、子供たちの足を傷つけますが、鬼は鞭を振り立てて休むことを許しません。倒れた楢夫を一郎がかばうと、鬼は「罪はこんどばかりではないぞ。歩け」と二人を追い立てます。しばらくすると、どこからか「にょらいじゅりょうぼん第十六」という言葉が「風のように又匂いのように」聞こえてきて、一郎はその言葉を繰り返しつぶやいてみました。すると、野原のはずれがぼうっと金色に光り、その中から白い足をした立派な大きな人が歩いてきます。その人は「こわいことはないぞ。お前たちの罪はこの世界を包む大きな徳の力に比べれば…小さな露のようなものだ」と言い、子供たちの傷をいやし、瑪瑙の野原を極楽の様な世界に変えます。しかし、その人は一郎には元の世界に帰れと言い、「お前の国にはここからたくさんの人たちが行っている。よく探してほんとうの道を習え」と諭します。

 やがて、猟師たちに助けられ目覚めた一郎が楢夫の顔を見ると、その顔は林檎のように赤く、唇はさっき別れた時のまま微笑んでいました。けれども手や胸は氷のように冷え、その息は絶えていました。

 

この結末を読んで多くの人は、子供たちは極楽浄土へ行けたのだろうと思い、ほっとするのではないでしょうか。賢治の家の宗派である浄土真宗や浄土宗では、南無阿弥陀仏と称えることにより、阿弥陀仏が支配する極楽浄土に生まれ変わることができるとしています。死のときには、阿弥陀如来が迎えに来るとし、次のような「阿弥陀来迎図」がたくさん作られました。

阿弥陀如来像』鎌倉時代・14世紀 重用文化財 東京国立博物館で撮影 

一神教でない仏教では、仏様は釈迦如来だけでなくたくさんいます。そして、それぞれの浄土を持っており、阿弥陀如来の浄土が「極楽浄土」なのです。それでは、なぜ浄土真宗では仏教を始めた釈迦ではなく阿弥陀如来を信仰するのでしょうか。浄土真宗の宗祖親鸞が生まれた平安時代末期は、歴史上の人物である釈迦が死んでから長い時間が経った「末法の世」と考えられていました。釈迦の死に人々のみならず神や動物までを悲しむ「涅槃図」がたくさん描かれているのも、その一つの表れかもしれません。以下にご覧いただく作品の右上の方では、賢治が自分になぞらえた、三つの顔を持った阿修羅も泣いています。

『仏涅槃図(部分)』室町時代・15世紀 東京国立博物館で撮影

親鸞の師であった法然は、末法の世では人々は難しい修行をすることは困難だと考え、「南無阿弥陀仏」と称えることを選択すべきと主張し「選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)」という書物を著わしました。無量寿経という経典の中の、その名を称えた人すべてを救う阿弥陀仏誓願を根拠にしています。

 

しかし、賢治は、この童話の中で人々を救うのは阿弥陀如来ではないと言うのです。それは、『ひかりの素足』で出てくる、「にょらいじゅりょうぼん第十六」という言葉で示されています。法華経の中の「如来寿量品」という章のことです。そこで釈迦は、自分が死んだというのは方便(善意の噓)であり、はるか昔に悟りを開き、寿命は永遠であると宣言しているのです。これを天台宗日蓮宗では「久遠実成(くおんじつじょう)の仏」と言っています。また、釈迦がこの世界(娑婆)に生きている以上、この世界こそ浄土だという思想(「娑婆即寂光土(しゃばそくじゃっこうど)」)が生じました。賢治の父の信じる浄土真宗では、この苦しみに満ちた世界で死んだ後は、阿弥陀如来の極楽浄土に転生することを願う宗派でした。それに対し日蓮宗を選んだ賢治は、この世界の中に人々が苦しみから解放された浄土を築くべきだと考えたのです。ですから、『ひかりの素足』のなかでお釈迦様は一郎に、元の世界に帰って「お前の国にはここからたくさんの人たちが行っている。よく探してほんとうの道を習え」と言っているのです。そして、念仏のみを選択し法華経を軽んじたと浄土経を批判した日蓮に習い、賢治は父に日蓮宗への改宗を求めたのです。

 

後に賢治は「農民芸術概論綱要」の中で、法華経の精神に基づき「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と宣言します。しかし、現実の世界をみるとき、世界全体が幸福になるのを待っていたら、個人の幸福は永遠に訪れないような気がします。せめて戦争や飢餓や虐待で死んでいった子供たちだけでも、『ひかりの素足』の楢夫のように安らかで美しい浄土に行ってほしいと私は思います。

 

賢治の父は、賢治の死後日蓮宗に改宗します。それは、日蓮宗に帰依した賢治や妹のトシを追悼したいという思いだけではなく、賢治との対話を通した彼自身の信仰の帰結と私は考えます。その理由は、おいおい述べていきたいと思います。