宮沢賢治の2つの謎

自作の詩や童話を「心象スケッチ」と呼んだ真の目的と、日蓮宗(国柱会)への改宗の謎を考えます。

トシの死 もう一つのブラックボックス (1)

『心象スケッチ 春と修羅』の6番目の章「無声慟哭」は、妹トシの死を扱った5編の口語詩で構成されています。その内の3篇(「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」)にはトシの臨終の日、1922年11月27日の日付が記されており、最初の作品「永訣の朝」は次のように始まります。

けふのうちに

とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ

みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ

   (*あめゆじゆとてちてけんじや)

うすあかくいつそう陰惨な雲から

みぞれはびちよびちよふつてくる

   (あめゆじゆとてちてけんじや)

青い蓴菜のもやうのついた

これらふたつのかけた陶椀に

おまへがたべるあめゆきをとらうとして

わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに

このくらいみぞれのなかに飛びだした

   (あめゆじゆとてちてけんじや)

賢治の詩は仏教や科学の専門用語を使った表現があって難しかったり、ときにはシニカルであったりするのですが、臨終の日の3作品にはそのようなところは全くありません。ものすごく完成度が高く、最愛の妹の命が失われようとしていく現実に直面した、研ぎ澄まされた悲しみにあふれています。私たちも素直に賢治の心を追体験し感動すればそれで良いのですが、このブログの目的である「宮沢賢治の2つの謎」を解くためには、無粋ですが少し作品の裏側を探らなければなりません。そのカギは、「永訣の朝」でも効果的に使われているトシの言葉だと思います。彼女の言葉を、臨終の床に同席した妹シゲ、及び付添婦の細川キヨの証言(『宮沢賢治の肖像』所収)と突き合わせてみると、3作品はどうも時系列的に並んではいないようなのです。まず大きな一つの作品(「永訣の朝」の原形)が賢治の頭の中にあって、その中から「松の針」と「無声慟哭」が抜き出されたのではないかと私には思えます。101年前に戻り、そのことをトシの言葉を時間を追って再現し、確認してみましょう。

トシは、病状が悪化したため、それまで療養していた下根子桜の別宅(「雨ニモマケズ」の詩碑がある所)から、11月19日に豊沢町の実家に戻ります。次の写真が現在の実家跡です。建物は終戦の年の空襲により焼失したのですが、もとはこの写真の左の方向に大きな敷地があって、トシは母屋と廊下でつながった離れの部屋を病室としていたようです。

離れは古い建物で寒く、その様子を妹のシゲは次のように回想しています。

「赤くおこした炭火は火鉢に入れて、部屋の隅々においたって、天井は高いし空気が暖まるわけにはいきません。空気が動けばとし子姉さんはすぐにせき込むのです。少しでも空気が動くのを防ごうとかやを吊り、屏風を回してという具合でした。」

その日は賢治の詩にある通り朝からみぞれが降る日で、トシの脈拍が弱くなったため医者を呼ぶと、「命旦夕(夕方から明朝)に迫る」とのことでした。ですから、賢治はまさに「けふのうちに/とほくへいつてしまふ・・・」という緊迫した気持ちで妹を見守っていたのです。

「永訣の朝」では、まず「あめゆじゆとてちてけんじや(あめゆきとつてきてください、賢治や)」という言葉が効果的にリフレインされ、トシの最後の望みが賢治をせきたてます。妹が兄に「賢治や」と語りかけるのは、東京生まれの私には少し奇異に思われるのですが、これより以前二人の会話を聞いていたキヨは「(ときには)としさんの方が姉さんのように見えます」と証言しています。しっかり者で頭の良い2歳違いの妹は、二人だけの時は姉のように、あるいは双子のように賢治に接していたのかもしれません。シゲはこのとき一緒に雪を庭に取りに行ったと語っていますので、雪を椀に取って食べさせたことは実際にあったできごとです。次に「Ora Orade Shitori egumo」(あたしはあたしでひとりいきます)というトシの言葉が記されています。ローマ字で記されていることと、他の証言者による言及がないことから、二人だけの会話か、あるいは賢治がトシの様子から感じ取った言葉なのではないでしょうか。この言葉に呼応する賢治の言葉が、「松の針」に記されています。

ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ

ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか

わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ

泣いてわたくしにさう言つてくれ

ひとりで死んでいこうとするトシに、賢治は一緒に死んでほしいと言ってくれと願いますがトシの返事はなく、ただ妹の美しい頬を見つめるしかないのです。さらに、「無声慟哭」の中には次のようにあります。

わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき

おまへはじぶんにさだめられたみちを

ひとりさびしく往かうとするか

信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが

あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて

毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき

おまへはひとりどこへ行かうとするのだ

家の宗教ではない国柱会日蓮宗の在家団体)の信仰の「みちづれ」である賢治を置いて、トシは「私は私で一人で死んでいきますから」、賢治は賢治で自分の修羅の道を進んでくださいと言いたかったのではないでしょうか。

「無声慟哭」にはまた、トシと母イチの間の「おら おかないふうしてらべ/けふはほんとに立派だぢやい/それでもからだくさえがべ?/うんにや いつかう」という会話も記されています。

「永訣の朝」のトシの最後の言葉は、

「うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる」(またひとにうまれてくるときは、こんなにじぶんのことばかりで、くるしまないようにうまれてきます)

というものでしたが、これは作品の中には書かれていない父政次郎の次の言葉に応答したものです。シゲの証言によれば、

「病気ばかりしてずい分苦しかったナ。人だなんてこんなに苦しい事ばかりいっぱいでひどい所だ。今度は人になんか生まれないで、いいところに生まれてくれよナ」

というものでした。この世を穢土と見、浄土に生まれ変わることを願う政次郎の浄土信仰に対し、死んでいくトシの方は、もう一度人としていきたいという強い願いを持っていたようです。この世界こそ理想社会でなければならないという、日蓮宗が重んじる「娑婆即寂光土(浄土)」という思想によるのかもしれません。しかし、女学校時代の恋愛事件以来煩悶してきたトシに対し、安らかな死後の転生を願ったのは父だけでなく賢治も同じだったのでしょう。「永訣の朝」は次のように結ばれます。

おまへがたべるこのふたわんのゆきに

わたくしはいまこころからいのる

どうかこれが天上のアイスクリームになつて

おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに

わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

「天井のアイスクリーム」の行は、宮沢家所蔵本では賢治自身により「どうかこれが兜率の天の食に変って」と書き込まれています。兜率天弥勒菩薩が住む天上の世界のひとつです。賢治も父同様、病苦や人間関係で苦しんで24歳の若さで死にゆくトシが、六道輪廻の最上位にあたる天界に生まれ変わることを望んだのでしょう。「無声慟哭」にも賢治は、「どうかきれいな頬をして/あたらしく天にうまれてくれ」と記しています。

そして、トシの息がまさに絶えようとした時の様子を、シゲは次のように伝えています。

「私はほんとに、ほんとにと思いながら身をぎっちりと堅くしていたら、父が、『皆でお題目を唱えてすけてあげなさい』と言います。気がついたら、一生懸命高くお題目を続けていました。そして、とし子姉さんは亡くなったのです。」

お題目とは、「南無妙法蓮華経」と声に出して唱える日蓮宗の唱題のことです。宮沢家の信仰である浄土真宗の「南無阿弥陀仏」ととなえる「称名」ではなく、「題目」を唱えることを父は許したのです。これは、政次郎がトシの信仰を日蓮宗と認めたことを意味しています。事実、分骨されたトシの遺骨を国柱会の霊廟に、政次郎と届けたことを同行したシゲの証言を、以前このブログで紹介しました。

賢治の研究者で父の政次郎とも親交のあった小倉豊文に「二つのブラックボックス」という論文があります。賢治がいつ、どうして浄土真宗から国柱会に改宗したかがはっきりしないことが第1のブラックボックス。戦後政次郎が日蓮宗に改宗し、墓所浄土真宗の安浄寺から日蓮宗の身照寺に移した理由について聴きそびれたことを、第2のブラックボックスとしています。私は、その二つのブラックボックスに、トシの改宗が密接に関係していると思います。トシの改宗もまた記録や確たる証言が残っていないため、今回の副題にある「もう一つのブラックボックス」なのです。その内容については、次回改めて考えていくこととします。

 

最後に、身照寺にある宮沢家の墓所の写真をご覧ください。トシが亡くなった頃賢治が教師をしていた花巻農学校跡から、歩いて5分もかからないところにあります。以前、私が訪れた時には既にきれいな生花が飾られていました。花も持たずに来たことを、政次郎さん、賢治さん、トシさんにお詫びして、お参りしました。

 

参考文献・出典

宮沢賢治全集1』ちくま文庫

『新稿本 宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜編』筑摩書房

『屋根の上が好きな兄と私 宮沢賢治妹・岩田シゲ回想録』蒼丘書林

「二つのブラックボックス」小倉豊文(『宮沢賢治の宗教世界』北辰堂)

宮沢賢治の肖像』森荘已池 津軽書房

宮沢賢治の仏教思想』牧野静 法蔵館