宮沢賢治の2つの謎

自作の詩や童話を「心象スケッチ」と呼んだ真の目的と、日蓮宗(国柱会)への改宗の謎を考えます。

『心象スケッチ 春と修羅』

大正11(1922)年1月、宮沢賢治は2年後に『心象スケッチ 春と修羅』として自費出版する口語詩を書き始めます。同年4月8日の日付が記され、詩集の題名ともなった「春と修羅」は、次のような詩句により始められます。

 

  心象のはいいろはがねから

  あけびのつるはくもにからまり

  のばらのやぶや腐食の湿地

  いちめんの諂曲模様

  (正午の管楽よりもしげく

   琥珀のかけらがそそぐとき)

  いかりのにがさまた青さ

  四月の気層の光の底を

  唾し はぎしりしゆききする

  おれはひとりの修羅なのだ

  (風景はなみだにゆすれ)

 

私は、詩は素直に読み、詩人の心と読み手の心が響きあえばそれで良いのだと考えています。しかし、この詩からは心の中に何かざらざらとした得体のしれないものが広がるのを感じ、なぜそう感じるのか考え込まざるをえません。初めて読んだ中学生の時、4行目の「諂曲(てんごく)」という言葉の意味が分からず、次の行に「正午の管楽」とあるので平安時代の音楽の一種かなと思いました。改めて「諂曲」を辞書で引いてみると、「自分の意思をまげて、こびへつらうこと」とありました。また、「諂」という漢字には「よこしまなことをする」という意味もありました。この詩は心象スケッチですから、賢治は自分の心の中の光景を記しているのだと気づきました。春になると北国の凍てついた大地から生命が萌え上がり、植物でさえも、あけびの蔓のようにからみ他の植物を利用し押しのけて生きて行こうとします。賢治自身、父の質屋という職業を卑しみながら、そこからの収入で生きてきました。家出青年が農学校の教師になれたのも、彼が「財閥」と呼ぶ宮澤一族の力と信用によるところもあったかもしれません。親友だった保阪嘉内を無理に折伏国柱会に入れようとして断られ、二人とも傷つきました。思い通りに行かないことを唾棄し、歯ぎしりし、怒ったこともあったのでしょう。そこから自分が修羅であるという自覚が生まれたのでしょうか。

 

修羅とは阿修羅のことですが、賢治の座右の書である島地大等の『漢和対照 妙法蓮華経』には、阿修羅について「山中、又は大海の底に居り、闘争を好み常に諸天と戦う悪神なり」という解説があります。しかし、阿修羅はその後仏教に帰依し、興福寺の国宝「阿修羅像」のように他の諸天とともに仏教を守護する眷属となりました。以前ご紹介した「仏涅槃図」でも、釈迦の足元で死を悲しむ姿が描かれるのが定番となっています。

宮沢賢治記念館には、次のような展示品がありました。

中央に南無妙法蓮華経と大きく書かれた日蓮宗の本尊「十界曼荼羅」の前に、興福寺の阿修羅像のミニチュアが立っています。父や母の浄土真宗を離れて、自分の心の中の諂曲模様を見つめながら日蓮宗に帰依する賢治の姿を表しているのだろうと感じました。阿修羅は仏教に帰依しても六道輪廻の中の修羅道から抜け出すことも、戦う神であることを辞めるわけにもいきません。日蓮は『観心本尊抄』という著作の中で、「瞋(いか)るは地獄、貧(むさぼ)るは餓鬼、痴(おろ)かは畜生、諂曲は修羅、喜ぶは天、平らかなるは人」と記し、一人の人間の中に輪廻転生する六道(地獄道、餓鬼道、畜生道修羅道、人道、天道)の全てがあるとしています。賢治が自己を修羅と規定した時、この日蓮の言葉が頭にあったことは間違いないでしょう。

 

自分自身を「日本第一の行者」「日本第一の大人」と誇らしく称した日蓮に対し、親鸞は自分のことを愚禿(ぐとく)と呼んでいました。そして、『愚禿抄』という著作の中で、「愚禿が心は、うちは愚にして外は賢なり」と記しています。つまり、「私(親鸞)は外見上は賢く見えるが、その中身は煩悩にまみれ愚かである」と言っているのです。親鸞が自己を愚禿と規定したように、賢治も自分を修羅と規定しました。賢治が聖人であるか否かと言った議論は不毛ですが、親鸞同様自分の心の闇を見つめ続けた人であったことは確かです。それは悪人や凡人にはできないことです。彼は16歳の頃父親宛の手紙(書簡No.5)に「歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と記しています。後に日蓮主義を標榜する国柱会に入信しましたが、感性的には親鸞に近い立場を維持したように思えます。

 

春と修羅」の中ほどには次のような詩句があります。

 

     ああかがやきの四月の底を

    はぎしり燃えてゆききする

   おれはひとりの修羅なのだ

   (玉髄の雲がながれて

    どこで啼くその春の鳥)

   日輪青くかげろへば

    修羅は樹林に交響し

     陥りくらむ天の椀から 

      黒い木の群落が延び

       その枝はかなしくしげり

      すべて二重の風景を

     喪神の森のこずえから

    ひらめいてとびたつからす

 

多くの詩や童話で賢治は岩手の自然を美しく表現しましたが、彼の心象の投映がそこに重く苦しい世界をも現出させ、彼には「すべて二重の風景」として見えたのでしょう。この詩には、題名の横に(mental sketch modified)とあります。同様の副題を付されたのは「青い槍の葉」と「原体剣舞連」だけです。3つの作品は趣を異にするものですが、単なる心象スケッチではなく、心に浮かんだ光景を再構成したものという点は共通するように思えます。また、『春と修羅』の序(1924年1月20日)には「これらは二十二箇月の/過去とかんずる方角から/紙と鉱質インクを連ね」とありますが、最初に掲載された詩「屈折率」の日付は1922年1月6日であり、24か月前になってしまいます。詩「春と修羅」(1922年4月8日)はおよそ22か月前の日付になっており、この詩から彼の口語詩は本格的に始まったという自覚があったのでしょう。生前出版した唯一の詩集の表題としたこの詩には、特別の意味が込められていたのです。

 

春と修羅」の終わりは以下のようになっています。

 

  けらをまとひおれを見るその農夫

  ほんとうにおれが見えるのか

  まばゆい気圏の海の底に

  (かなしみは青々ふかく)

  ZYPRESSEN しづかにゆすれ

  鳥はまた青ぞらを截る

  (まことのことばはここになく

   修羅の涙はつちにふる)

 

  あたらしくそらに息つけば

  ほの白く肺はちぢまり

  (このからだそらのみぢんにちらばれ)

  いてふのこずゑまたひかり

  ZYPRESSENいよいよ黒く

  雲の火ばなは降りそそぐ

 

賢治は、農夫、すなわち他人には自分が修羅であることはわからないのではと思い、「まことのことばはここになく」という語で言語の限界を嘆きます。青空に向かって大きく呼吸をすれば肺が縮こまり、病弱な肉体の限界を感じるのでしょうか。そうした自分に対し、春のイチョウやZYPRESSEN(糸杉)はいよいよ繁り、雲の間からは日の光が火花のように降り注ぐのです。

 

稗貫郡立農学校は1923(大正12)年4月1日に郡制廃止に伴い県立花巻農学校となり、若葉町の新校舎に移転しました。1969年、更に花巻空港のそばに移転したため現在は公園(「ぎんどろ公園」)となり、「風の又三郎」のモニュメントが建っています。その外れに、賢治の同僚の教員で特別親しかった堀籠文之進の筆による碑がありましたので、写真を撮って来ました。

 

 

ちなみに、賢治は『春と修羅』にある「小岩井農場」の、出版時に削除したパート5(第五綴)に堀籠のことをこう書いています。

 

「堀籠さんは温和しい人なんだ。/あのまっすぐないゝ魂を/おれは始終おどしてばかり居る。/烈しい白びかりのやうなものを/どしゃどしゃ投げつけてばかり居る。/こっちにそんな考えはない/まるっきり反対なんだが/いつでも結局さう云うことになる。/私がよくしようと思ふこと/それがみんなあの人には/つらいことになってゐるらしい」(『春と修羅異稿。「小岩井農場 先駆形B」より)

 

好きな友達をからかい過ぎて、反省している子供のような詩です。「心象スケッチ」という方法を採ると、こういうつぶやきも出てくるということです。彼の詩法の秘密が垣間見えるような気がします。

 

参考文献

『日本の思想4 日蓮筑摩書房

宮沢賢治 心象の宇宙論』大塚常樹 朝文社

宮沢賢治全集1.9』ちくま文庫

 

 

 

稗貫農学校時代 家出青年が教師に 

大正10(1921)年12月、宮沢賢治は稗貫(ひえぬき)郡立稗貫農学校の教諭となりました。明治40年に開所した蚕業講習所が4月に衣替えしたもので、町の人々や隣の花巻女学校の生徒からは、「桑っこ大学」と呼ばれた小さな学校に、兵役に就いた者の後任として賢治は採用されました。でも、同じ年の1月に家出をした青年が、公立の学校の教師になれたというのはちょっと意外です。そもそも25歳の大人が「家出」というのは表現としてどうかと思い、『新校本 宮沢賢治全集』を調べてみたところ、当時の地元紙「岩手新報」の大正10年3月6日付け朝刊の次の様な記事が載っていました。

 

「花巻川口町に於ける素封家の息宮沢賢治(二五)君は大正七年盛岡高等農学校を優等で卒業した秀才だが、遂四五日前の深夜飄然と家出し爾来行衛不明なので仝町では此頃の話題として種々な取沙汰している。同君は・・・常に最優等で同級生間に君子人の如く尊敬を払われていた。それに酒も飲まず煙草は喫わず女の話一つもないと云う石部金吉派に属する人間だと高農在学当時から同級生間の『変人』として取扱かはれていた。・・・・」

 

家出ではなく、せめて「出奔」とでも書いてくれれば良いものを、新聞に家出と書かれたうえ「変人」扱いされては、家族や本人にはつらいものがあったと思います。先にご紹介した岩手民報のトシのゴシップ記事といい、花巻という地方都市の名士の一族に生まれた者の不運ということでしょうか。良くも悪くも周りから注目されていたようです。郡立稗貫農学校は大正12年に県立花巻農学校へと昇格しますが、地元の有力者であった賢治の母の兄弟の宮澤恒治はその運動の中心人物でした。また、恒治の兄直治は後に花巻町長になっています。町の政治にもかかわる一族に属するということで、家出には目をつぶって教員に採用されたのかもしれません。

 

賢治は後に教え子に宛てた手紙に「農学校の四年間がいちばんやりがいのある時でした」と記しています(書簡番号260)。実際、『春と修羅』と『注文の多い料理店』は、この時期に出版されています。

花巻の宮沢賢治記念館にて撮影



この時期、不思議なことがひとつあります。大正11(1922)年1月から大正14(1925)年2月までの3年間、最初の年の年賀状を除いて1通の手紙も残っていないのです。賢治をめぐる人々は、驚くほど彼の手紙をきちんと保管していました。親友保阪嘉内宛の手紙73通は、2008年にテレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」に出品され、1億8千万円という鑑定額が付いたほど、賢治の手紙には市場価値があります。もしどこかに手紙が残っていれば、きっと世に出ていたはずです。ですから、彼は実際にほとんど手紙を書かなかったのでしょう。賢治の置かれた状況や内心を知ることができる手がかりとして手紙は貴重な資料ですので、彼の代表作が書かれたこの時期に手紙が存在しないことは残念なことです。その代わり、彼が心象スケッチと名づけた口語詩には、その末尾に日付が記されています。賢治は自作の詩を何回も推敲し改稿していますので、必ずしもその日付に書かれたということではないのですが、なんらかの原体験があった日と言われています。『春と修羅』の冒頭を飾る心象スケッチ「屈折率」には、稗貫農学校教員となった翌月、「1922.1.6」という日付が記されています。

 

    屈 折 率

 七つ森のこっちのひとつが

 水の中よりもっと明るく

 そしてたいへん巨きいのに

 わたくしはでこぼこ凍ったみちをふみ

 このでこぼこの雪をふみ

 向こうの縮れた亜鉛の雲へ

 陰気な郵便脚夫のやうに

   (またアラツデイン 洋燈とり)

 急がなければならないのか

             (1922.1.6)

  

明るい世界を通り過ぎて雪を降らせる暗い雲の方へ、アラジンの魔法のランプを取りに行くのだという決意を述べている、明るさと暗さが交錯している作品です。このブログの最初の日に、口語詩は心象スケッチであり、彼が重要と信じる「或る心理学的な仕事」の「支度」であると述べた大正14年の賢治の手紙を紹介しました。その「仕事」はこれから取りに行くアラジンの魔法のランプがあってこそ成し遂げられるものであり、その「支度」はでこぼこの雪道を歩かなければならぬつらいものになるかもしれぬと賢治は感じ、「陰気な郵便脚夫」のように急いで進もうという覚悟をしています。そして、その予感は、11か月後信仰の先達であるトシの死として現実となるのです。

 

参考文献

新校本宮沢賢治全集16巻下 補遺・伝記資料編 筑摩書房

宮澤賢治全集Ⅰ ちくま文庫

 

 

 

 

宮沢賢治 浮世絵と短歌の謎

宮沢賢治はたいへんな浮世絵好きでした。

大正5(1916)年8月17日、彼が20歳の夏、ドイツ語の勉強のため上京した際、親友の保阪嘉内に送った手紙の中に、次の2首の浮世絵に関する短歌があります。

 

歌まろの 乗合船の 絵の前に なんだあふれぬ 富士くらければ

ほそぼそと 波なす線は うすれ日の 富士のさびしさ うたひあるかな

 

翌月の手紙に上野の東京国立博物館に行ったことが記されていますので、おそらくそこで観た浮世絵版画を詠ったものでしょう。この絵は歌麿のどんな作品なのでしょうか。そして、なぜ富士を見て涙があふれたのでしょうか。3年後の大正8年の同じく保阪宛の手紙にこの時のことを回想して、「博物館にはいい加減に褪色した歌麿の三枚続き」があったとありました。以上より、歌麿作品で富士を背景として、乗合船が描かれた、3枚続きの作品をネットで探したら、次の画像が見つかりました。

 

喜多川歌麿一富士二鷹三茄子』3枚続き錦絵 出典:Library of Congress

東京国立博物館東博)の画像検索では見つかりませんでしたが、米国のLibrary of Congress(米国議会図書館)の公開画像にあったものです。東博の浮世絵コレクションの大半は、1943年に所蔵となった松方コレクション約8,000点とその後の収集品・寄贈品です。賢治が見た頃の館蔵品は少なかったと思われます。東博の所蔵品がアメリカに渡ったという情報はありませんので、上記作品は別の摺りなのでしょう。この作品は題名にある通り、徳川家康が好きだったといわれる富士と茄子と鷹を描いたおめでたい作品です。左の男は茄子をかごに入れて売り歩く行商人(棒手降りといいました)、中央のやや女性的な男は鷹匠、背景には雪をかぶった富士山が見えます。正月の夢に見ると良いことがあるということで、江戸時代の人々は枕元に飾って寝たのかもしれません。でも、絵の登場人物はあまりうれしそうな顔をしていません。米国議会図書館によれば、この絵は1798~1801年頃に描かれたとされています。この頃、歌麿寛政の改革に続く幕府の文化芸術弾圧により得意の美人大首絵を禁じられ、その後筆禍事件で手鎖40日の刑に処せられ、1806年に失意の内に亡くなったと伝わっています。歌麿にとっては、自分をいじめる江戸幕府を開いた家康の好きなものを描くのは、不本意だったかもしれません。賢治はそういった歌麿の境遇をこの絵から読み取り、富士を見て涙したのではないでしょうか。

20歳の賢治は東京を去るにあたって嘉内に送った手紙の中で、「博物館へ行って知り合いになった鉱物たちの広重の空や水とさよならして来ました」と記しています。「知り合いになった鉱物たち」とは、彼の詩にも登場する伯林青(プルシャンブルー、べるりんせい)のことで、江戸後期に長崎経由もたらされた鉱物由来の青の顔料です。安価で発色が良く褪色しにくい為、多くの浮世絵師が用いました。特に広重の青は西洋でももてはやされました。歌麿の時代にはなかったため、上記の絵でも褪色が進んで悲しげな雰囲気になったのかもしれません。

花巻の宮沢賢治記念館には、彼が残した歌麿と国貞の錦絵(多色摺り浮世絵版画)が展示されていました。案内パネルには右の絵は「豊国画」とありましたが、歌川国貞の誤りです。国貞の号「五渡亭(ごとてい)」が記されています。

賢治遺品の浮世絵 宮澤賢治記念館にて撮影

賢治は浮世絵の愛好家でしたが、いわゆるコレクターではなかったようで、買い求めた浮世絵を友人知人におしげもなくプレゼントしていたようです。ただ、若い頃の浮世絵購入は父親からすれば道楽に見えたようです。大正8年8月の保阪嘉内宛の手紙で、父親が「きさまは世間のこの苦しい中で農林の学校を出ながら何のざまだ。・・・錦絵なんかを折角ひねくり回すとは不届千万」と毎日のように言っていると述べています。ただ、賢治の家にはもともと浮世絵があったようです。江戸時代以来の旧家では、土蔵に浮世絵を保存していた例が多く、賢治の妹シゲの回想録には浮世絵を貼った枕屏風が土蔵の中にあったと記されています。賢治が骨董商に騙されたふりをして粗悪な浮世絵を自分のコレクションと交換し、骨董商の心を読んで楽しんでいたとの記述があります。家族から見れば愚かな行為と見えたようですが、その後の童話の登場人物の心理描写に活かしたに違いありません。亡くなる少し前にも、「浮世絵広告文」(1931年7月)、「浮世絵版画の話」 ( 1932~1933秋頃)といった、確かな浮世絵の見識を示す文章も残しています。

賢治が書いた詩歌の形式は、短歌(13~25歳)、口語詩(25~32歳)、文語詩(32~37歳)と、ほぼ年代順に変化しています。その内彼が「心象スケッチ」と呼んだのは口語詩と、童話だけでした。中学生の頃「日記を書くように、毎晩、短歌を作っていました」と親類の関登久也は記しています。文語詩は彼の若すぎる晩年に、末妹のクニに「なっても(何もかも)駄目でも、これがあるもや」と語ったと伝わる彼の人生の総決算でした。この、詩形式の変遷にも、彼の心象スケッチが何を目指したのかという謎を解く鍵があると考えています。

賢治がたびたび訪れて浮世絵を鑑賞した、ジョサイア・コンドル設計の東京国立博物館本館は、大正12(1923)年の関東大震災で倒壊してしまいました。現在の本館は昭和12年に再建されたもので、賢治は見ていません。その代わり、賢治も訪れたはずの、明治42(1909)年に開館し現在も残る、片山東熊設計の表敬館の写真をご紹介してブログを終わります。

東京国立博物館 表敬館

参考文献

岩田シゲ『屋根の上が好きな兄と私』蒼丘書林

宮沢賢治全集3,9,10』ちくま文庫

『図説 宮澤賢治ちくま学芸文庫 他

精神主義と日蓮主義 一之江の妙宗大霊廟を訪ねて

宮沢賢治の妹トシは、大正11(1922)年11月27日、24歳で亡くなりました。葬儀は宮沢家の菩提寺であった浄土真宗大谷派の安浄寺で行われましたが、国柱会に入信していた賢治は参列せず、同会の定める方式によって一人で追善したとのことです。翌年1月、賢治はトシの遺骨を分骨し、当時静岡県三保にあった国柱会の合同墓「妙宗大霊廟」に納骨する手続きをしています。

妙宗大霊廟は昭和3年に東京都江戸川区一之江に移転しています。先日トシの霊にお参りするために、一之江に行った際に撮影したのが次の写真です。

堀尾青史の『年譜宮沢賢治伝』によると、トシの遺骨は大正12年の春、「父と妹シゲが三保に納める」とあります。何らかの事情で賢治は三保に行かなかったようです。父の政次郎は浄土真宗の篤信の信者でしたから、大霊廟への納骨が賢治一人の望みであれば自ら三保まで行くことはなかったでしょう。おそらくトシ自身の希望をかなえてやるためだったのではないでしょうか。それでは、トシは国柱会の信者だったのでしょうか。国柱会のホームページには賢治が大正9年に信者として入会していることと、トシの遺骨が大霊廟に納められていることは記されていますが、トシが入会していたとの記載はありません。

その一方賢治の遺骨は、終生国柱会員であったにも関わらず妙宗大霊廟に納骨されていません。当初は浄土真宗の安浄寺、現在は宮沢家が日蓮宗に改宗したため花巻の日蓮宗身照寺に納められています。その代わり、大霊廟のある庭園の一画に賢治の辞世の歌を刻んだ歌碑が建てられていました。

賢治とトシが国柱会とどのように関わったのかは、このブログの2番目の謎に関わってきます。浄土真宗の島地大等の『漢和対照妙法蓮華経』に心酔しその教えも受けた賢治が、なぜ浄土真宗を棄てて国柱会に入ったかという謎です。単に法華経を学ぶということであれば宗旨替えは必要なかったはずです。この点に関連し、宗教社会学者の大谷栄一が次の様なことを示唆しています。

 

政次郎の真宗信仰は、当時の最先端の近代真宗精神主義信仰)だった。賢治の法華信仰は、やはり当時の最先端の近代法華・日蓮信仰である日蓮主義に立脚していた。両者の対立は、近代的な「精神主義日蓮主義」という枠組みで理解されるべきであろう。(『日蓮主義とは何だったのか』p.311)

 

どちらも複雑な内容と背景がある思想運動なのですが、あえて一言でいえば、精神主義というのは清沢満之が始めた思想で個人の内面の充足に重きを置く立場です。日蓮主義は国柱会の指導者田中智学の造語で、法華経及び日蓮の思想に基づき社会を変革していこうとする立場です。花巻高等女学校時代のスキャンダルから逃げるように花巻を出て来たトシは、大正4年父の紹介で、清沢満之に近く当時仏教界の内村鑑三ともてはやされていた近角常観に面談しています。しかし、面談内容に満足できなかったことを感じさせる近角宛の長文の手紙が2通残されています。その後トシは日本女子大成瀬仁蔵による西洋の哲学や神秘思想の教えを受け、インドの詩人タゴールの講演を聴いたりしています。そして、大正7年12月発病したトシの看護のために、賢治は母とともに上京し、翌年大正8年3月初めまで東京にいます。大正9年12月の保阪嘉内宛ての賢治の書簡に、田中智学の演説を「只二十五分だけ昨年聴きました」とありますので、上記の上京の際に聴講したのでしょう。看病に来てくれた兄との会話の中で、トシの心も日蓮主義に傾いていったのではないでしょうか。その後病の小康を得たトシは大正9年2月に「自省録」を書き、同じ年に賢治は国柱会に入会しています。

賢治の心象スケッチ「無声慟哭」には、「信仰を一つにするたったひとりのみちづれのわたくし」という一節があります。兄妹は、この時期父の浄土真宗をベースにした精神主義から離れ、田中智学の日蓮主義の立場に立つことを明確にしたと思われます。ただし、国柱会に対する極端な心酔を示した賢治に対し、トシの「自省録」はより広い視野を持っていたようです。後年の賢治も、智学の日蓮主義に比べより豊かな心象世界を展開していきます。

 

国柱会本部に続く参道の片隅に、蓮の花が咲いていました。江戸川区教育委員会の案内板によれば、2000年前の蓮の種子を発芽成長させた大賀蓮を移植したものだそうです。賢治とトシの魂を見ているような不思議な気持ちになりました。


国柱会は現在有料老人ホームを経営しており、掲示板に職員募集のポスターが貼ってあることに帰りがけに気が付きました。大正10年1月に当時鶯谷にあった国柱会本部を訪ねた賢治が、「どうか下足番でもビラ張りでもなんでも致しますからこちらでお使いくださいますまいか」と頼んだところ、「今は別段人を募集も致しません」と断られたことを思い出し、ほほえましい気持ちになりました。

 

参考文献

大谷栄一『日蓮主義とは何だったのか』講談社

牧野静「宮沢賢治における追善」(『宗教研究』94巻3輯)

岩田文昭・碧海寿広「宮沢賢治と近角常観」(大阪教育大学紀要2010.9)

 

 

 

 

宮沢トシのヴァイオリン 「自省録」と二疋の白い鳥

賢治の二歳年下の妹トシが、高等女学校の生徒だった頃に使ったヴァイオリンが、花巻の宮沢賢治記念館に賢治のチェロと並んで展示されていました。日本で最初にヴァイオリンを量産販売した鈴木政吉が、明治40年に製作したものだそうです。

トシと小学校の同級生で賢治とも親しかった親族の関登久也は、トシのことを「頭の良いという点では、あるいは兄弟中随一ではなかったか」と書き残しています。要するに賢治より頭が良かったということです。父の政次郎はその誇らしい長女に、当時まだ珍しかったヴァイオリンを買い与えたのでしょう。しかし、そのことが彼女の人生に大きなトラウマを残す事件を引き起こすこととなりました。トシは16歳のときに女学校の若い音楽教師にヴァイオリンの課外レッスンを受け、恋心を抱きました。しかし、その教師は別の女生徒の方に関心を持っていたのです。そのことが誰かから漏れ、「音楽教師と二美人の初恋」というゴシップ記事が、「岩手民報」という地元紙に載ってしまったのです。実名は伏せられていましたが、宮沢一族は地元の名士でしたので、皆トシのこととわかったことでしょう。現代から見れば何ということもない出来事ですし、トシは後に母校の教員になるのですから、当時もあまり問題視されなかったのではないでしょうか。しかし、本人の心には大きな傷跡を残しました。

花巻高等女学校跡地 現在は生涯学習施設が建っている。
右手前の空地に、かつて賢治が勤務した稗貫郡立稗貫農学校があった。

トシは女学校を卒業すると、東京の目白にある日本女子大学に進みました。兄の賢治には中学卒業後進学することを許さず家業を継がせようとした父が、トシには進学を許したのは、傷心の娘をしばらく知らない土地に移そうという親心だったのかもしれません。賢治も、同じ年に盛岡高等農林学校(現岩手大学)に進学を許され、二人は図らずも高等教育においては同学年となりました。

 

日本女子大学は明治34(1901)年、成瀬仁蔵により創立された日本で最初の女子大です。トシはここで家政学を専攻するかたわら成瀬の提唱した「実践倫理」の講義を受け、宗教や哲学を学びました。そして、卒業後に花巻高等女学校の教師として帰郷するに際して、事件の総括と今後の自分の進む道を確かめる長文を、大正9(1920)年に記しました。それを、彼女の甥にあたる宮沢敦郎氏が昭和62(1987)年に母クニ(賢治の末妹)の遺品から発見し、「宮沢トシ自省録」と名付けて公表したのです。

その中に、次のような一文があります。ここでトシは自分のことを「彼女」と呼んで突き放して分析しています。

「一念三千の理法や天台の学理は彼女には口にするだに僭越ではあるけれども、彼女の理想が小乗的傾向を去って大乗の菩提即煩悩の世界に憧憬と理想とをおいてゐることは疑ひなかった。」

私はこの文章を読んだとき、トシが結核のため24歳で亡くなった翌年、賢治が書いた「白い鳥」(『春と修羅』所収)という詩の一節の意味がわかったような気がしました。

 

 二疋の大きな白い鳥が

 鋭くかなしく啼きかはしながら

 しめった朝の日光を飛んでゐる

 それはわたくしのいもうとだ

 死んだわたくしのいもうとだ

 兄が来たのであんなにかなしく啼いている

 

トシは一人なのに、白い鳥はなぜか二疋なのです。賢治もトシも参加したと思われる明治44(1911)年の花巻仏教会の夏期講習会で、島地大東は「大乗起信論」を講義しています。「大乗起信論」は難解な書物ですが、人間の心を「心真如」と「心生滅」に分け、両者はそれぞれ一切を包摂し切り離せないものであるとしています。トシの言う「菩提」は「心真如」に、「煩悩」は「心生滅」に相応します。トシは煩悩も菩提も両方とも自分であると受け止めたうえで再生すると、「自省録」の中で誓っているのです。我々は賢治を菩薩の様な人と思うことがありますが、本人は自分を修羅と呼んでいました。賢治もまた修羅であり菩薩であったと私は思います。亡くなった人の人格を思い起こすとき、その人が人生に悩み格闘した煩悩の側面を忘れたなら、それはもう幽冥境を異にすることになります。賢治にとって大きな白い鳥が二疋でなくなったときは、トシとの精神的な交流が完全に断たれることを意味したのではないでしょうか。

 

賢治はトシの自省録のように、自分の内心を客観的に論じる文書を残していません。ですから、このブログの初回に記した二つの謎が残ってしまったのだと思います。もし、トシが賢治より長生きしたら、賢治の思想をもっと分かりやすく解説してくれたのではないでしょうか。賢治はトシの死を悼む詩「無声慟哭」のなかで、自分のことを「信仰を一つにするたったひとりのみちづれのわたくし」と呼んでいます。先達はトシであり、「みちづれ」は賢治の方であったのです。(私はそのことに山根知子氏の著作を読んで初めて気付きました。)しかし、もしトシが賢治の死後まで生きていたら、『春と修羅』の中心をなすあのすばらしい一連の挽歌は生まれなかったことになってしまいます。それでは宮沢賢治という詩人も誕生しなかったかもしれないと思うと、トシはやはり先に死ななければならなかったのでしょうか。

牙彫鷹置物 金田兼次郎作 明治25年(1892)  東京国立博物館

先日、東京国立博物館象牙に彫られた白い鷹の置物を観てきました。賢治はたびたび上野の博物館を訪れていますので、この置物も見たかもしれません。上記の詩の鳥のイメージは本来は白鳥か白鷺と思いますが、この白い鷹の悲しそうな眼は、私にトシを連想させました。

 

参考文献

宮沢賢治 妹トシの拓いた道』山根知子著 朝文社

大乗起信論を読む』高崎直道著 岩波書店 他

 

 

 

大正10年本郷菊坂町 激動の年、そして転機

先日、文京区にある菊坂に言ってきました。大正10(1921)年、25歳の宮沢賢治はこの坂の近くの民家の2階に、約半年間住んでいました。その期間の出来事が、彼の生涯に決定的な転機をもたらしました。菊坂は、本郷3丁目の交差点近くから北西に下り、言問通りに至る600mほどの通りです。周辺の当時の地名は本郷区菊坂町でしたが、今は文京区本郷4丁目と5丁目が菊坂を挟んでいます。

西側から見た菊坂

大正10(1921)年1月23日、家業の質屋の手伝いをしていた賢治は、突如家出をして上京します。前年から父との信仰をめぐる対立で悶々としていた賢治は、この日衝動的に家を飛び出したのです。いとこに宛てた手紙によると、同日4時半ごろ棚の上の日蓮の本が背中に落ちてきたので、「さあもう今だ」と思い立って5時12分の汽車に飛び乗ったとあります。この時から、彼の生涯の転機となる激動の年が始まりました。翌朝、夜行列車が上野に着くと、その足で鶯谷国柱会本部(日蓮宗の在家団体)を訪ね、同会の幹部高知尾智耀(たかちお ちよう)に次のように切り出します。

「私は昨年ご入会を許されました岩手県の宮沢と申すものでございますが今度家の帰正を願うために俄かにこちらに参りました。どうか下足番でもビラ張りでも何でも致しますからこちらでお使いくださいますまいか。」

これに対し高知尾の応対は、「今は人を募集していないから住むところを決めて出直すように」という冷たいものでした。賢治が言った「家の帰正」がかなわないとは、父母が浄土真宗から日蓮宗への改宗をしてくれないということです。これが家出の理由だったのですが、高知尾の答えは「全体父母というものはなかなか改宗できないものです」という素っ気ないものでした。

賢治は父の知人の小林六太郎方に身を寄せた後、翌日本郷菊坂町の稲垣方の2階に下宿します。その家は菊坂の中ほどを左に下る十数段の階段の先に、菊坂と並行して走る小道にありました。そこに次のパネルがありました。

賢治旧居跡を示すパネル

パネルには、賢治の旧居は「右手建物の2階中央付近です」とありますが、その当時の建物はありません。私は以前本郷に住んでいたことがあるのですが、地元の人はこの小道を「下道(したみち)」と呼んでいました。その下道の写真が次の画像です。

下道(したみち)

また、賢治の下宿から100mほどの所に、明治時代に創業し2015年に廃業した「菊水湯」という銭湯がありました。跡地はマンションになり、今は写真の通り鬼瓦のみ残っています。賢治は2月24日付の父政次郎宛ての手紙に、「私は変わりなく衛生にも折角注意して夜はいつも十時前に寝みますしお湯にも度々参ります・・・」と記しています。「お湯」というのは「菊水湯」のことでしょう。病弱な息子を心配する父の手紙に対する返信の一節です。この親子は、対立しながら生涯お互いをいたわり合っていました。

菊水湯跡

菊坂に戻ってしばらく下っていくと、右手に明治時代からある質屋の建物が残っています。この近くに住んでいた樋口一葉が通った質屋で、一部改修されているようですがかつての面影を残しており、今は文京区が管理しています。賢治は質屋という家業を嫌っていましたが、この店を見てどう思ったでしょう。質屋は、当時の貧しい人々に小口金融を提供した重要な職業です。その家業を嫌う賢治に、父政次郎はきっと悲しい思いをしたことと思います。

本郷五丁目の質屋

大正10年の賢治の行動をまとめると、おおよそ次の通りとなります。

1月  23日    家出

同 24日 上野に着き、国柱会本部へ行く。小林六太郎方に身を寄せる。

同 25日 本郷菊坂に下宿。

同 26日 東大前の小さな出版社で筆耕の仕事を見つける。

2月     高知尾から文芸により仏教の教えを広めるよう勧められ、猛烈な勢いで童話を書き始める。

4月上旬  父が上京し共に関西を旅行。(父は日蓮親鸞も学んだ比叡山に連れて行き、改宗しなくても法華経を学ぶことはできると諭したのではないでしょうか。)

7月 18日 上野の図書館で保阪嘉内と訣別。(前々回のブログ参照)

8月中旬   妹トシ病気の電報を受取り、トランクいっぱいの原稿を持って帰郷。

9月     これまで読んだ短歌を清書して一冊にまとめ、これ以降詩作に転じる。

12月 3日  稗貫郡立稗貫農学校教諭となる。

 

大正10年、賢治は家出をし、国柱会に出入りし、父と比叡山に行き、親友と訣別し、ジョバンニのようなアルバイトをし、トランク一杯の童話の原稿を書き、短歌をやめて詩作を始め、農学校の先生になったのです。

国柱会の高知尾は賢治の死後、生前冷たく接したことを悔いていたと伝わっています。しかし、そのおかげで、賢治の日蓮宗に対する熱狂はその後やや鎮まったようです。それよりも、彼が賢治に仏教文学の創作を勧めたことは、その後の賢治に大きな影響を与えました。賢治も晩年、あの「雨ニモマケズ」を書きつけた手帳に、「高知尾師ノ奨メニヨリ 法華文学ノ創作 名ヲアラハサズ、報ヲウケズ、貢高(くこう)ノ心ヲ離レ」と記しています。そして、大正10年が終わると、あの童話集『注文の多い料理店』や心象スケッチ『春と修羅』を生み出す、充実した農学校教諭としての4年間が始まります。

 

 

参考文献

宮沢賢治全集9.10』ちくま文庫

宮沢賢治物語』関登久也 学習研究社 

『年譜 宮沢賢治伝』堀尾青史 中公文庫 他

童話『ひかりの素足』と「にょらいじゅりょうぼん第十六」

賢治の童話に『ひかりの素足』があります。この童話の中に、賢治親子の宗教をめぐる論争の謎を解くヒントがあると思います。あらすじは次の通りです。

 

 父親と山の中にある炭焼小屋に泊まった一郎と弟の楢夫は、学校があるので父と別れて家に帰ることになります。幼い楢夫は、風の又三郎がおっかないことを言ったといって帰ることを渋るのですが、父親は夢でも見たのだろうと取り合いません。炭を引き取りに来た馬を引く人と一緒に小屋を出ますが、馬引きが途中で出会った人と長話を始めましたので二人だけで進みます。すると、にわかに吹雪になって道に迷い、雪山の中で動けなくなります。

 気が付くと、たくさんの子供たちが鬼に追い立てられている行進に出会い、ふたりもその中に連れ込まれます。道は瑪瑙の尖ったかけらでできていて、子供たちの足を傷つけますが、鬼は鞭を振り立てて休むことを許しません。倒れた楢夫を一郎がかばうと、鬼は「罪はこんどばかりではないぞ。歩け」と二人を追い立てます。しばらくすると、どこからか「にょらいじゅりょうぼん第十六」という言葉が「風のように又匂いのように」聞こえてきて、一郎はその言葉を繰り返しつぶやいてみました。すると、野原のはずれがぼうっと金色に光り、その中から白い足をした立派な大きな人が歩いてきます。その人は「こわいことはないぞ。お前たちの罪はこの世界を包む大きな徳の力に比べれば…小さな露のようなものだ」と言い、子供たちの傷をいやし、瑪瑙の野原を極楽の様な世界に変えます。しかし、その人は一郎には元の世界に帰れと言い、「お前の国にはここからたくさんの人たちが行っている。よく探してほんとうの道を習え」と諭します。

 やがて、猟師たちに助けられ目覚めた一郎が楢夫の顔を見ると、その顔は林檎のように赤く、唇はさっき別れた時のまま微笑んでいました。けれども手や胸は氷のように冷え、その息は絶えていました。

 

この結末を読んで多くの人は、子供たちは極楽浄土へ行けたのだろうと思い、ほっとするのではないでしょうか。賢治の家の宗派である浄土真宗や浄土宗では、南無阿弥陀仏と称えることにより、阿弥陀仏が支配する極楽浄土に生まれ変わることができるとしています。死のときには、阿弥陀如来が迎えに来るとし、次のような「阿弥陀来迎図」がたくさん作られました。

阿弥陀如来像』鎌倉時代・14世紀 重用文化財 東京国立博物館で撮影 

一神教でない仏教では、仏様は釈迦如来だけでなくたくさんいます。そして、それぞれの浄土を持っており、阿弥陀如来の浄土が「極楽浄土」なのです。それでは、なぜ浄土真宗では仏教を始めた釈迦ではなく阿弥陀如来を信仰するのでしょうか。浄土真宗の宗祖親鸞が生まれた平安時代末期は、歴史上の人物である釈迦が死んでから長い時間が経った「末法の世」と考えられていました。釈迦の死に人々のみならず神や動物までを悲しむ「涅槃図」がたくさん描かれているのも、その一つの表れかもしれません。以下にご覧いただく作品の右上の方では、賢治が自分になぞらえた、三つの顔を持った阿修羅も泣いています。

『仏涅槃図(部分)』室町時代・15世紀 東京国立博物館で撮影

親鸞の師であった法然は、末法の世では人々は難しい修行をすることは困難だと考え、「南無阿弥陀仏」と称えることを選択すべきと主張し「選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)」という書物を著わしました。無量寿経という経典の中の、その名を称えた人すべてを救う阿弥陀仏誓願を根拠にしています。

 

しかし、賢治は、この童話の中で人々を救うのは阿弥陀如来ではないと言うのです。それは、『ひかりの素足』で出てくる、「にょらいじゅりょうぼん第十六」という言葉で示されています。法華経の中の「如来寿量品」という章のことです。そこで釈迦は、自分が死んだというのは方便(善意の噓)であり、はるか昔に悟りを開き、寿命は永遠であると宣言しているのです。これを天台宗日蓮宗では「久遠実成(くおんじつじょう)の仏」と言っています。また、釈迦がこの世界(娑婆)に生きている以上、この世界こそ浄土だという思想(「娑婆即寂光土(しゃばそくじゃっこうど)」)が生じました。賢治の父の信じる浄土真宗では、この苦しみに満ちた世界で死んだ後は、阿弥陀如来の極楽浄土に転生することを願う宗派でした。それに対し日蓮宗を選んだ賢治は、この世界の中に人々が苦しみから解放された浄土を築くべきだと考えたのです。ですから、『ひかりの素足』のなかでお釈迦様は一郎に、元の世界に帰って「お前の国にはここからたくさんの人たちが行っている。よく探してほんとうの道を習え」と言っているのです。そして、念仏のみを選択し法華経を軽んじたと浄土経を批判した日蓮に習い、賢治は父に日蓮宗への改宗を求めたのです。

 

後に賢治は「農民芸術概論綱要」の中で、法華経の精神に基づき「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と宣言します。しかし、現実の世界をみるとき、世界全体が幸福になるのを待っていたら、個人の幸福は永遠に訪れないような気がします。せめて戦争や飢餓や虐待で死んでいった子供たちだけでも、『ひかりの素足』の楢夫のように安らかで美しい浄土に行ってほしいと私は思います。

 

賢治の父は、賢治の死後日蓮宗に改宗します。それは、日蓮宗に帰依した賢治や妹のトシを追悼したいという思いだけではなく、賢治との対話を通した彼自身の信仰の帰結と私は考えます。その理由は、おいおい述べていきたいと思います。