1929(昭和4)年4月、花巻の実家で療養していた宮沢賢治は、一関市で石灰を採掘する東北砕石工場を経営していた鈴木東蔵の訪問を受け、石灰を肥料として売れないかという相談を受けます。盛岡高等農林学校の研究生時代の土性調査を通じて、岩手県の酸性土壌の改良には石灰が有効と考えていましたので、以後いろいろアドバイスをするようになりました。そして、体調が改善した1931(昭和6)年2月に技師兼販売支援の嘱託として契約します。賢治が22歳の時に提案した人造宝石の加工販売に反対した父政次郎も、今回は社会的に有用な事業と考えてか、同社に出資することになりました。もっとも、東北砕石工場は新校本全集の年譜によれば、鈴木自身が「五円の都合も出来ぬ」という貧乏工場で、父は賢治の給料分を前払いしたのかもしれません。実際、3月に高等農林学校時代の友人に宛てた手紙に「月給五十円」と書いていますので、政次郎の出資がなかったら払えなかったかもしれません。
同年3月から賢治は盛んに営業活動を行い石灰販売は上向いたのですが、9月に東京に出張中高熱を発して倒れてしまいます。商品見本を含め40㎏のトランクを持っての出張と年譜にあり、病弱な賢治の身体が持たなかったのでしょう。9月21日には父母宛と弟妹宛ての2通の遺書を書いています。
賢治が遺書を書いた「八幡館」という旅館は当時神田駿河台にありましたので、先日行ってみました。次の写真が現在のそのあたりの様子で、日本大学の法科大学院が入っているビルになっていました。
当時の面影を残す建物は残っていないかとぶらぶらしてみたところ、すぐそばに小さな神社、太田姫稲荷神社がありました。案内板を読むと、賢治が倒れた1931(昭和6)年に総武線建設のためこの地に移築されたとのこと。今はない八幡館をしのびながら神社にお参りしました。
賢治は9月28日に花巻に帰り、2通の遺書は投函されることなくトランクに入ったままだったようで、彼の死後、手帳とともにトランクから見つかっています。その手帳には「雨ニモマケズ」が記されていたため、「雨ニモマケズ手帳」と名づけられています。
同年10月上旬から年末ないし翌年初めにかけて使用されており、「雨ニモマケズ」には11月3日の日付が「11.3.」と記されています。「雨ニモマケズ」の文学的評価については、最高傑作とした谷川徹三と、「ふと書きおとした過失のようなもの」とした中村稔の間にかつて論争があったように、分かれるところでしょう。少なくとも、内的独白を現在形で綴る「心象スケッチ」とはちょっと異質な作品です。「サウイフ/モノニ/ワタシハ/ナリタイ」という詩句で結ばれ、その後に「南無妙法蓮華経」の文字を如来と菩薩の名が囲む日蓮宗の本尊である「十界曼荼羅」が書かれており、この作品が祈りの詩であったことが示されています。
同じ手帳に「土偶坊」という戯曲のメモが残っており、「ワレワレ〈ハ〉カウイフモノニナリタイ」と付記されています。自己を「修羅」と規定し『春と修羅』第一集から第三集までの作品を書いた賢治は、「デクノボー」という新たな規定によって自己の在り方を見直そうとしているようです。これに先立つ1928年から1930年頃に書かれた作品集「疾中」には文語詩が混じっており、この時期徐々に心象スケッチをやめて、文語詩に転換していきます。
遺書を書いた1931(昭和6)年9月21日からちょうど2年後の1933(昭和8)年9月21日に37歳で賢治は亡くなります。この2年間に彼は従来の作品制作から大きく転換し、童話を少年小説へ改作(「風野又三郎」「グスコーブドリの伝記」)改稿(「銀河鉄道の夜」)し、文語詩の定稿(『文語詩稿 五十篇』『文語詩稿 一百篇』)を行っています。死期を悟った賢治は「或る心理学的仕事」の仕上げを行ったのか、それともそれを放棄したのか。次回は「銀河鉄道の夜」の第三次稿から第四次稿への改稿を通して、その謎を探っていくつもりです。
出典・参考文献
・〈新〉校本宮沢賢治全集 第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇
・『宮沢賢治全集9』ちくま文庫 筑摩書房 1995