宮沢賢治の2つの謎

自作の詩や童話を「心象スケッチ」と呼んだ真の目的と、日蓮宗(国柱会)への改宗の謎を考えます。

日蓮主義者 石原莞爾と妹尾義郎

1920(大正9)年、賢治が国柱会に入信した同じ年に、石原莞爾(1889-1949)が入信しています。家出をして国柱会の門をたたいた賢治は素っ気ない応対を受けましたが、エリート軍人であった石原は厚遇されたようです。国柱会日蓮宗の僧侶であった田中智学(1861-1939)が還俗後に、宗門を批判して作った宗教団体です。智学は日蓮の思想に国体思想を結び付け、日蓮宗に帰依した天皇が世界をその徳により支配することで平和が訪れると主張しました。現代の我々から見れば理解しがたい思想ですが、賢治や石原のみならず多くの若者の心をとらえたのです。智学は全世界を一つの家にすることを意味する「八紘一宇」という言葉を唱え、日蓮主義という言葉も作りました。また、演劇の脚本を書いたりして仏教と芸術を結び付ける活動もしました。日蓮主義に基づく活動を、宗教学者の大谷栄一は「日蓮主義運動」と名づけ次のように定義しています。

第二次世界大戦前の日本において、「法華経」にもとづく仏教的な政教一致(法国冥合・王仏冥合や立 正安国)による日本統合(一国同帰)と世界統一(一天四海皆帰妙法)の実現による理想世界(仏国土)の達成をめざして、社会的・政治的な志向性をもって展開された仏教系宗教運動である。

日蓮主義者は、この世とは別に極楽浄土を求めるのではなく、この世界の中に理想郷を作り出そうとしました。賢治が岩手県をイーハトヴという架空の国に見立て理想をめざしたのと同様に、石原は中国の東北部に異なる民族が相和する「五族協和」の理想郷を作ろうとしました。彼のすごい所は、実際に満州国という国を作ってしまったことです。先日亡くなった世界的大指揮者で満州生まれの小澤征爾(1935-2024)の名前は、満州国の生みの親である板垣征四郎の征と、石原莞爾の爾から取って父親が付けた名前だそうです。彼らは当時国民的ヒーローだったのです。しかし、満州国の各民族による共和制をめざした石原の意見は入れられず、日本軍は清国最後の皇帝溥儀を担ぎ出し傀儡政権を作ってしまいました。

1936年の二・二六事件の首謀者の一人西田税や、思想的黒幕とされた北一輝日蓮主義者でした。皮肉なことに事件のとき、石原はクーデターを鎮圧する側に回りました。渋谷には当時陸軍刑務所があり、今は処刑された青年将校たちを悼む慰霊像が建っています。

 

 

日蓮主義者には他に、財界人を暗殺した1932(昭和7)年の血盟団事件の首謀者とされる井上日召もいます。日蓮主義者には極右やテロリストばかりのような印象を受けるかもしれませんが、妹尾義郎(1889-1961)のように新興仏教青年同盟を組織し戦争に反対し投獄され、戦後は共産党に入党した人もいます。賢治も社会主義政党労働者農民党(労農党)を支援しました。その活動家の次の様な証言が残っています。

昭和2年の春頃、「労農党の事務所がなくて困っている」と賢治に話したら、「俺がかりてくれる」と言って宮沢町*1の長屋 — 三間に一間半ぐらい ― をかりてくれた。賢治はシンパだった。経費なども賢治がだしたと思う。ドイツ語の本を売った金だとも言っていた。(中略)口ぐせのように、「俺には実行力がないが、お前たちは思った通り進め、なんとかタスけてやるから」と言うのだった。その頃、レーニンの『国家と革命』を教えてくれ、と言われ私なりに一時間ぐらい話をすれば「今度は俺がやる」と、交換に土壌学を賢治から教わったものだった。疲れればレコードを聞いたり、セロをかなでた。夏から秋にかけて読んで一くぎりした夜おそく「どうもありがとう、ところで講義してもらったがこれはダメですね、日本に限ってこの思想による革命は起こらない」と断定的に言い、『仏教にかえる』と翌夜からうちわ太鼓で町を回った。(川村尚三談、名須川溢男氏採録1967・8・18)

1928年4月10日に労農党に解散命令が出、賢治の羅須地人協会も同年8月には彼の発病により活動を停止します。賢治の晩年には、1931(昭和6)年に満州事変、翌年には血盟団事件と五一五事件、彼が37歳で死んだ1933(昭和8)年にはドイツでヒトラー内閣が誕生しています。賢治の「雨ニモ負ケズ」は、国民に耐乏を促す詩として軍国主義に利用されました。賢治が生きていたら悲しんだことでしょう。もっとも、手帳に書きつけた個人的な祈りの詩を公表することはなかったはずですが…。田中智学自身は血盟団事件を批判しており平和主義者だったようでしたが、日蓮主義を主張することにより軍国主義を助長し、彼の死後日本が悲惨な戦争へと突き進んでいく端緒を作ってしまいました。賢治は終生国柱会の信者でしたが、なぜか遺骨は国柱会の霊廟に入っていません。国柱会に全面的に帰依したわけではなかったのかもしれません。文語詩に「国柱会」という作品があり、次のような部分があります。

台の上桜はなさき

行楽の士女さゞめかん

この館はひえびえとして

泉石をうち繞りたり

 

大居士は眼をいたみ

はや三月人の見るなく

智応氏はのどをいたづき

巾巻きて廊に按ぜり

家出して上野の国柱会をたずねた頃の思い出を綴ったのでしょう。眼病の大居士(田中智学)には会えず、智学の高弟の山川智応にも相手にされなかった記憶を、晩年の賢治はややシニカルな詩にしています。妹尾義郎も賢治の2年前に国柱会の門をたたきますが相手にされず、社会主義的な仏教運動に進んでいます。国柱会にはやや排他的、エリート主義的なところがあったのかもしれません。

石原莞爾日中戦争や太平洋戦争には反対しました。しかし、その一方1941年の講演では、30年以内に日米最終戦争がおこり、日蓮主義国家日本の勝利により50年後には平和な世界が訪れると予言しました。しかし、実際の50年後には日米経済摩擦に敗れた日本のバブルの崩壊が起っており、何とも皮肉な結果です。今、ウクライナパレスチナばかりでなく世界各地で紛争が起こり、アメリカでは人々の分断が進んでいます。賢治の生きた20世紀前半は戦争の多い時代でした。今日、だんだん時代状況が似てきているような気がしてなりません。

 

出典・参考文献

・『宮沢賢治全集4』ちくま文庫 筑摩書房 1986

・大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈』講談社 2019

・名須川溢男「宮沢賢治について」『岩手史学研究(50)』1967

石原莞爾『最終戦争論』中公文庫 1993

 

 

*1:宮沢町は通称、現花巻市仲町