宮沢賢治の2つの謎

自作の詩や童話を「心象スケッチ」と呼んだ真の目的と、日蓮宗(国柱会)への改宗の謎を考えます。

岩波茂雄と倉田百三

宮沢賢治は『春と修羅』を自費出版した翌年、1925年12月20日付で岩波書店の創業者岩波茂雄宛に、次のような書き出しで始まる手紙を出しました。

とつぜん手紙などをさしあげてまことに失礼ではございますがどうかご一読をねがひます。わたくしは岩手県の農学校の教師をして居りますが六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。わたくしはさう云ふ方の勉強もせずまた風だの稲だのにとかくまぎれ勝ちでしたから、わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。

岩波書店の創業者だった岩波茂雄と賢治の間に、個人的接点はなかったと思われます。賢治の父政次郎は、岩波が若いころ師と仰いだ浄土真宗の僧侶近角常観と懇意にしていましたが、岩波と宮沢家に関係があったという資料は今のところ存在しないようです。賢治の詩は、一部の詩人たちからは評価されつつありましたが、中央の出版界ではまだ知られていませんでした。そんな、無名の詩人から上記のような手紙を受け取った新進気鋭の出版人岩波茂雄は、さぞびっくりしたことでしょう。見ず知らずの人間から「最近私は異空間についておかしな感じがするのです」と言われたら、「どうぞ他でご相談ください」と言いたくなります。事実全く無視されたようで、岩波書店が2003年に出した『岩波茂雄への手紙』には、岩波が受け取った書簡の差出人一覧がありますが、その中に宮沢賢治の名前はありません。実際、この手紙は1986年になって古書店主の青木正美という人が出版した『古本市場 掘出し奇譚』という本に紹介され、初めて世の人々の知るところとなりました。

青木正美古本市場 掘出し奇譚』

この本で著者の青木氏は入手経路を記載しておらず、宛名も某出版社としていましたが、現在では新校本全集に写真も掲載されており、賢治の書簡の真筆に間違いないようです。しかしなぜ、彼はこのような手紙を出したのでしょうか。

その謎を解く鍵となる倉田百三の書簡(1916.12.20付)が、前記の『岩波茂雄への手紙』に掲載されていました。賢治同様まだ無名だった倉田は、自作の『出家とその弟子』の出版を岩波に依頼する手紙を出し初版は自費出版でしたが、評判となったため岩波書店により増刷されました。賢治は、おそらくこの逸話を知っていて、無名の人間の手紙も読んでくれる出版人としての岩波に手紙を出したのではないでしょうか。しかし、彼の依頼は自作を出版してくれというものではなく、売れ残った『春と修羅』と岩波書店の出版した本とを交換してほしいというものだったのです。賢治の手紙に次のようにあります。

そして本(『春と修羅』)は四百ばかり売れたのかどうなったのかよくわかりません。二百ばかりはたのんで返してもらひました。それは手許に全部あります。わたくしは渇いたやうに勉強したいのです。貪るやうに読みたいのです。もしもあの田舎くさい売れないわたくしの本とあなたがお出しになる哲学や心理学の立派な著述とを幾冊でもお取り換へ下さいますならわたくしの感謝は申しあげられません。

賢治は当時岩波書店が出していた哲学や心理学の本が欲しかったのです。岩波書店は1915年に「哲学叢書」を刊行し、哲学や心理学の本で高い評価を確立していました。1919年には和辻哲郎の『古寺巡礼』、1921年には西田幾多郎の『善の研究』を再販、倉田の『愛と認識としての出発』を出版しいずれもベストセラーになっています。賢治は花巻農学校の教師として当時としては高給を得ており、実家も裕福でしたので本を買う金に困ることはなかったでしょうが、この頃教師を辞めて自立することを考え始めていました。売れ残った200冊の『春と修羅』を目の前にし、読みたいたくさんの高価な本を考えて、このような手紙を書いてしまったのでしょう。

この手紙にはほかにも注目すべき点があります。前段の引用にある「わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました」とあることです。この部分を素直に読むと、『春と修羅』の心象スケッチは、自分の勉強のためにだけ書いたものだということになります。私は、中学生の頃から『春と修羅』の作品に感動しすごい作品だと思ってきた人間ですので、「おいおい賢治君、心象スケッチは君のお勉強のためのものだったのか」と言いたくなります。けれども賢治はこの10か月前、1925年2月9日付けの森佐一宛の手紙にこう書いています。

これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。わたしはあの無謀な「春と修羅」に於て、序文の考を主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し、それを基骨としたさまざまの生活を発表して、誰かに見てもらひたいと、愚かにも考へたのです。あの篇々がいゝも悪いもあったものでないのです。私はあれを宗教家やいろいろの人たちに贈りました。その人たちはどこも見てくれませんでした。

二つの手紙を読むとき、この頃賢治の考えていたことが見えてきます。すなわち、「歴史や宗教の位置を全く変換」する『春と修羅』の序の思想を実現するために、『或る心理学的な仕事』をする必要があり、その準備として心象スケッチを書いた。そして、心象スケッチは序の思想をバックボーンとした生活の記録なのだ。しかし、誰も理解してくれなかったので、岩波書店で出版している哲学や心理学の本を勉強し、本格的な『心理学的な仕事』をこれからするつもりなのだ」ということだと思います。

翌年3月末で、賢治は後年の手紙に「農学校の4年間がいちばんやり甲斐のある時でした」と書いた教師の職を辞め、8月には羅須地人協会を立ち上げます。『春と修羅』の序の思想を理解してもらうためには心象スケッチを書くだけでは足りないと考えたのでしょう。日蓮主義は、浄土ではなく現世における救済と仏国土の建設をめざす思想です。賢治は、国柱会の信者(信行員)として実践の道を選んだのです。

ところで、『古本市場 掘出し奇譚』に青木正美氏は次のように記しています。

現在まで未発表だった私蔵の書簡である。宛名は某出版社で、当時はまだ無名詩人にすぎなかった賢治の、こんな虫のよい申し出を出版社が受ける筈もなく、手紙はいつか反古として処分されてしまったのだろう。しかし、その出版社が、賢治の望む二、三冊でも送り、代わりに受け取ったかもしれない『春と修羅』の数冊が、今かりにあったとしたら、どのくらいの金額になっているであろうかと、私は商売柄、想像しないわけにはいかなかった。

私は古書店主ではありませんので、岩波茂雄がこのとき賢治の才能に気が付いていたらどうなったかと考えます。そうなると羅須地人協会もなかったかもしれませんし、ひょっとしたらその後のすばらしい詩や童話は、今とは違ったものになったかもしれません。倉田と賢治の手紙の日付は奇しくも同じ12月20日でしたが、やはり賢治の手紙は埋もれる運命にあったのでしょう。

 

 

参考文献・出典

古本市場 掘出し奇譚』青木正美日本古書通信社、1986年。

岩波茂雄への手紙』岩波書店編集部、2003年。 

宮沢賢治全集9』ちくま文庫、1995年。