宮沢賢治は「風野又三郎」という童話を二つ書いています。最初の作品は1924(大正13)年、『注文の多い料理店』を出版した頃に作られましたが、生前には発表されませんでした。次のような独特な文章で始まります。
どっどどどどうど どどうど どどう、
ああまいざくろも吹きとばせ
すっぱいざくろもふきとばせ
どっどどどどうど どどうど どどう
谷川の岸にある、先生が一人で生徒は二十人の「小さな四角な学校」が舞台です。夏休み明けの9月1日に生徒たちが学校に来ると「おかしな赤い髪の子供がひとり一番前の机に」座っていたのです。その子は鼠色のマントを着て水晶かガラスでできたすきとおった沓をはいており、顔は熟したりんごのようでした。五年生の嘉助という少年が、「ああ、三年生さ入るのだ」と叫びましたので、ちょうどその位の年恰好だったのでしょう。この学校には3年生だけいなかったのです。ところが、その子は先生には見えず、いつのまにやら消えてしまいます。翌日、また子供たちの前に現われ「風野又三郎」と名乗ります。その子は人間ではなく風の精だったのです。兄の名を尋ねると「風野又三郎。きまってるぢゃないか」と答え、父も叔父も皆同じ名前の集合的な存在であることが示されます。
又三郎はその日から毎日現われ、世界中を飛び回った話や、風の効用や、サイクルホールの話をします。サイクルホールとは竜巻や台風のように回転する風の渦のことで、小さいものは十人くらい、大きなものは千人で作ることもあると言います。その内に子供たちは又三郎の存在に慣れてしまい、「まるで東京からふいに田舎の学校へ移って来た友だちぐらいにしか思われなくなって」しまいます。そして、9月10日、6年生の一郎が夢で又三郎の歌をきいて目覚めると、強風の中にちらっと又三郎が見えました。「さよなら、一郎さん」という声が聞こえ、一郎が「又三郎さん。さよなら」と叫ぶところで物語は終わります。岩手の民間伝承と大気循環の科学的知識が結びついた、いかにも賢治らしいメルヘンです。
花巻農学校の跡地につくられたぎんどろ公園には、「風の又三郎群像」というモニュメントがあります。ガラスのマントを着て飛び立つばかりの又三郎と、六人の子供たちが表わされているそうで、この童話にぴったりの構図です。
もう一つの『風野又三郎』は、賢治が37歳で亡くなる前年の1932(昭和7)年頃に書かれました。次の書き出しで始まります。
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいくゎりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
「ああまいざくろ」が「青いくるみ」に、「すっぱいざくろ」が「すっぱいくゎりん」に変わっています。
谷川の岸の小さな学校という設定は変わりませんが、生徒は全学年に居て総勢38人と少し大所帯になっています。そして、何よりも大きな違いは9月1日の教室に現れたのが風の精ではなく、人間の子供だったことです。しかし、その子は「赤い髪」をして、「変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革の半靴を」はき、「顔といったらまるで熟したりんごのよう」だったのです。風が急に吹いて教室のガラス戸がガタガタ鳴ったときその子がニヤッと笑ったので、五年生の嘉助が「ああわかった。あいつは風の又三郎だぞ」と叫びます。その後、先生がその子は北海道から父親の仕事であるモリブデンの鉱脈の調査の関係で転校してきた高田三郎であると紹介しますが、皆は又三郎と呼ぶようになります。ここで注目すべきは、賢治が題名の「風野又三郎」はそのままにしながら、本文では「風の又三郎」と表記していることです。そのため、【新】校本全集では「風〔の〕又三郎」という題名にして区別しています。
子供たちは三郎と遊びながら不思議な体験をしていきます。競馬遊びをしていた嘉助が逃げた馬を追ううちに霧の中で迷い、風の又三郎の幻影を見た後助けられたり、皆が専売局の監視人のような怪しげな人物に出会ったりします。三郎は風の精の又三郎のように風の効用を4年生の耕助に説明しますが、質問をしながら相手を矛盾に導くソクラテスのような方法を取ります。この作品では高田三郎は4年生として設定されていますので、風の精よりは少し論理的なようです。五時間目の授業が終わり。皆で川へ行って鬼ごっこをしたとき急に夕立がやってくると、だれともなく「雨はざっこざっこ雨三郎、風はどっこどっこ又三郎。」と叫び、皆も声をあわせて叫びます。
9月12日になり、一郎は三郎の歌を夢で見て「びっくりして跳ね起き」ます。嘉助と学校に行くと、先生から三郎が転校したことを聞かされます。嘉助が「先生飛んで行ったのですか」と聞くと、「いいえ、おとうさんが会社から電報で呼ばれたのです。・・・。ここのモリブデンの鉱脈は当分手をつけないことになったためなそうです」と先生は答えます。「そうだないな。やっぱりあいづは風の又三郎だったな」と嘉助が叫ぶところでこの物語は終わります。嘉助が「飛んで行った」と言った意味を先生は当然ながら理解していません。風の精同様に、高田三郎の中にいた又三郎は先生には見えていなかったのです。
賢治は花巻農学校退職後に書いたと思われる創作メモの中に、「少年小説」と題して四つの作品名(「ポラーノの広場」「風野又三郎」「銀河ステーション」「グスコーブドリの伝記」)を挙げており、これらはいずれも改作や改稿をしています。中でも「風野又三郎」については、1931(昭和6)年に使っていた手帳に「Mental Sketch revived」と記しています。Mental Sketch は「心象スケッチ」のこと、revivedは「復活された、あるいは再生された」という意味でしょう。賢治は『注文の多い料理店』の広告文の中で、「この童話集の一列は実に作者の心象の一部である」と述べていますので、同じ頃に書かれた最初の「風の又三郎」も心象スケッチに属するのでしょう。2番目の「風野又三郎」も心象スケッチであったならば、わざわざMental Sketch revivedとは書かなかったでしょう。2番目の作品は1番目の作品の書き直しではなく、新しい器の中に再生した物語なのでしょう。風の精である1作目の又三郎が神秘的な存在であるのはもちろんなのですが、2作目の高田三郎の中にも神秘があり、それは子供たちだけにしか見えなかったのです。転校して居なくなった高田三郎は、彼らにとっては風の又三郎そのものだったのです。そして、三郎だけでなく一郎や嘉助や他の子供たちが存在していること自体神秘であり、尊いのだと賢治は言いたかったのではないでしょうか。2つの「風野又三郎」は、2つとも読むことにより賢治の思いが良くわかる作品です。四次稿まである『銀河鉄道の夜』も同様なことが言えるのですが、それは又改めて考えたいと思います。
小学校時代に転校して行って消息が分からない友達を思い出すと、不思議な気がします。私とは別の世界に居て様々な経験を積み、外見的にも精神的にも別人になっているでしょう。それでも、もし再会することができたら、たちまち小学生だったころの気持ちになるでしょう。それは、私たちの心の中にいつまでも変わらない共通の魂があるからだと思うのは、いささか感傷的でしょうか。
出典・参考文献