宮沢賢治は1925(大正14)年6月25日に、かつての親友保阪嘉内に宛てた手紙に次のように記しています。
お手紙ありがとうございました。
来春はわたくしも教師をやめて本当の百姓になって働きます。
嘉内の年譜を見ると、彼は同年3月に結婚し5月に新聞社を退社して農業を始め、その後農村改革を進めようとしていたことになっています。ですから、賢治が受け取った手紙には、サラリーマンをやめて百姓を始めるということが書かれていたと思われます。賢治はそれに応えて「自分も百姓になる」と告げたのでしょう。しかし、「お目にもかかりたいのですがお互いもう容易のことでなくなりました」とも書いており、いささか素っ気ない文章です。二人の関係は信仰をめぐって既に破綻していましたが、嘉内の方は賢治の手紙を宝物のように整理保管しており、その友情は変わらず手紙を出していたのでしょう。しかし、賢治の保阪宛の手紙はこれが最後になりました。
賢治は翌1926(大正15)年1月に下根子桜(現在の花巻市桜町)にあった別宅を改装し、農学校を退職後4月から独居自炊の生活を始めました。同年8月には羅須地人協会を設立して、ここで農業や農民芸術の講義やレコードコンサートを開いたりしました。
この家は賢治の祖父喜助が1911(明治45)年に建てたもので、元は生家から2km弱の「雨ニモマケズ」の詩碑があるところにありましたが、今は花巻市郊外の空港のそばにあります。賢治の死後宮沢家はこの家を売却しこの地に移築されたところへ、1969年に花巻農業高校が移転してきたとのことです。農学校の方が賢治の家を追っかけてきたような具合です。現在は高校が管理していて、4月から11月初めまで誰でも見学できます。建物の中に入ると、オルガンが置かれた小さな教室もあります。祖父やトシが病気療養したときには必要のない部屋ですから、1月に行った改装によるものなのでしょう。
この年1月から3月まで、若手社会人向けに行われた短期の講習「国民高等学校」に、賢治は講師のひとりとして参加し「農民芸術」の授業を担当しました。そのときの生徒のノートの内容から、「農民芸術概論」はその授業のために構想したものと推測されます。『農民芸術概論』、『農民芸術概論綱要』、『農民芸術の興隆』の3作品から成りますが、新校本全集の年譜には同年6月の欄に「このころ『農民芸術概論綱要』を書く」とありますので、その頃まとめられたのでしょう。そして、8月に設立された羅須地人協会の「講義案内」にも、「地人芸術概論」という名の項目があります。このことから、地人とは農民のことであることもわかります。
賢治が後に「農学校の4年間がいちばんやり甲斐のある時でした」と手紙に書いた、教師の職をやめてまで始めた営農と羅須地人協会ですから、その思想的根拠と思われる「農民芸術概論」はこのブログが解明をめざす「ある心理学的な仕事」の候補のひとつです。実際、『春と修羅』の「序」の思想につながる言葉がちりばめられています。『綱要』から、一部を抜き出してみましょう。
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
農民芸術とは宇宙感情の 地人 個性と通ずる具体的なる表現である
四次感覚は静芸術に流動を容る
無意識部から溢れるものでなければ多く無力か詐偽である
われらのすべての生活を一つの大きな第四次元の芸術に創りあげようではないか
まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう
永久の未完成これ完成である
2番目に挙げた「農民芸術とは宇宙感情の 地人 個性と通ずる具体的なる表現である」については、「国民高等学校」の生徒(伊藤清一)のノートには、同じ個所について「農民芸術とは宇宙精神の地人の個性を通ずる具体的な表現である」と書かれています。芸術が人々の心を、宇宙精神を通じて一つにすると賢治は考えたことを示しています。これは、まさに『春と修羅』の「序」の思想です。
「農民芸術概論」には美しい言葉や深遠な思想が散りばめられています。しかし、全体はマニフェストやスローガンのようで、少し押しつけがましいように感じるのは私だけでしょうか。実際、関登久也は伊藤の言葉として「生徒にはなかなか難解だった」と記しています。
賢治の心象スケッチは、「歴史や宗教の位置を全く変換」する『春と修羅』の「序」の思想を実現するための、「或る心理学的な仕事」の準備だと森佐一宛の手紙にありました。「農民芸術概論」は「序」の思想の延長線上にあり、賢治は自らが地人(すなわち農民)として行動しつつ若い人たちを教えました。しかし、その行動は直接的過ぎて「心理学的な仕事」とは言えないように思います。この時期、賢治は近隣の農民への肥料設計相談を始めたり、労農党の活動家への支援をしたり、東京でチェロやタイプライターを習ったり、多忙な生活をしています。しかし、賢治の羅須地人協会の活動は、彼の健康の悪化により、1928(昭和3)年8月に終わります。そして、9月には農学校の教え子、宛に次の言葉を手紙に記しています。
八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたままで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかかります。
「今度は主に書く方へかかります」いうのは、いよいよ「心理学的な仕事」に取り掛かるということでしょうか。その前に、次回は労農党や社会主義との関わりについて検討し、この時期の賢治の活動を日蓮主義の観点から整理したいと思います。
羅須地人協会の建物の案内板には、帽子と外套がかかっています。疲れた賢治がこの家でひっそりと休んでいるような気がしました。
出典・参考文献
・『宮沢賢治 友への手紙』保阪庸夫、小沢俊郎編 筑摩書房 1968
・菊池忠治「農民芸術概論の筆記録について」『宮沢賢治論集』金剛出版 1971