宮沢賢治の2つの謎

自作の詩や童話を「心象スケッチ」と呼んだ真の目的と、日蓮宗(国柱会)への改宗の謎を考えます。

「小岩井農場」 長大なつぶやき

先日、ずいぶん久しぶりに小岩井農場に行ってきました。盛岡駅でレンタカーを借り、繋温泉で一泊してから向かいました。田沢湖線小岩井駅から少し行った道の右側に、小岩井農場の標識がありました。

 

賢治もこの道を歩いて農場に向かったはずです。彼の記述によれば、当時は「火山灰のみち」だったようです。今から101年前の1922年5月21日、前回取り上げた「真空溶媒」から3日後のことです。『心象スケッチ 春と修羅』の中で一番長い、600行近い作品「小岩井農場」は次のような言葉で始まります。

 

わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた/そのために雲がぎらつとひかつたくらゐだ/けれどももつとはやいひとはある/化学の並川さんによく肖たひとだ/あのオリーブのせびろなどは/そつくりおとなしい農学士だ/さつき盛岡のていしやばでも/たしかにわたくしはさうおもつてゐた/このひとが砂糖水のなかの/つめたくあかるい待合室から/ひとあしでるとき……わたくしもでる

 

賢治は小岩井農場に行くために、汽車をすばやく降りました。すると、彼よりも早く降りて前を行く人がいて、盛岡高等農林学校時代の恩師の並川さんに似ていました。その人は身軽に客馬車に乗ります。駅から小岩井農場までは6km近くあります。賢治は更に鞍掛山のふもとを通って滝沢駅(現在はいわて銀河鉄道線の駅)に向かうつもりのため「これから5里もあるく」ので、馬車に一緒に乗ろうか乗るまいかと迷います。並川さんのモデルは、賢治の卒論の指導教員だった古川仲衛門教授とのことです。卒業後4年が経っており、その間に賢治は国柱会に入り、家出し、親友保阪嘉内と訣別し、今は小さな農学校の教師になっています。仕事で農場に向かう様子の並川さんこと古川教授とは、何となく話がしたくなかったのでしょう。(私たちもそういうこと、時々ありますよね。)40行目に至り彼はこうつぶやきます。

 

今日ならわたくしだつて/馬車に乗れないわけではない/(あいまいな思惟の蛍光/きつといつでもかうなのだ)/もう馬車が動いている/(これがじつにいゝことだ/どうしやうか考へてゐるひまに/それが過ぎて滅くなるといふこと) 

 

感情的な言葉を牽制するかのように、かっこ内に表記されたもう一人の自分の冷めた声が交錯します。やがて、小岩井農場の入口に到着します。

 

もう入口だ〔小岩井農場〕/ (いつものとほりだ)/混んだ野ばらやあけびのやぶ/〔もの売りきのことりお断り申し候〕/ (いつものとほりだ ぢき医院もある)/〔禁猟区〕/ ふん いつものとほりだ/小さな沢と青い木こだち/沢では水が暗くそして鈍つてゐる

 

残念ながら現代の小岩井農場は観光地化していて、テーマパークの入口の様でした。平日の朝でまだ閑散としていたため、それはそれで感慨深いものがありましたが・・・

その後も、彼は歩きながら「新開地風の飲食店」や、農耕用の「黒馬が二ひき汗でぬれ」ているのを見たり、山の風を感じたりするごとにつぶやきます。「真空溶媒」の「灰色の紳士」に似た「五月のいまごろ/黒いながいオーヴアを着た/医者らしいもの」に会ったりします。そのうちに地質年代名から名付けられたユリア(ジュラ紀)とペムペル(ペルム紀)という妖精のような子供たちを幻視したりし、現実の小岩井農場は異空間へと変わっていきます。

 

この長大な詩は、パート一からパート九まで区分されています。しかし、五、六と八は出版時に削除され、番号だけが記されています。全集にある異稿(先駆形B)では、五で前回も触れた「堀籠さん」との少し同性愛的な感情がつづられ、六では雨に降られ予定を変えて小岩井駅に戻ることにした経緯が述べられています。パート八は失われたようですが、もしそれらを加えたら900行くらいになったのでしょうか。そして、パート九に至りこの詩は次のように結ばれます。

 

この不可思議な大きな心象宙宇のなかで/もしも正しいねがひに燃えて/じぶんとひとと万象といつしよに/至上福祉にいたらうとする/それをある宗教情操とするならば/そのねがひから砕けまたは疲れ/じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする/この変態を恋愛といふ/そしてどこまでもその方向では/決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を/むりにもごまかし求め得ようとする/この傾向を性慾といふ/すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従つて/さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある/この命題は可逆的にもまた正しく/わたくしにはあんまり恐ろしいことだ/けれどもいくら恐ろしいといつても/それがほんたうならしかたない/さあはつきり眼をあいてたれにも見え/明確に物理学の法則にしたがふ/これら実在の現象のなかから/あたらしくまつすぐに起て/明るい雨がこんなにたのしくそそぐのに/馬車が行く 馬はぬれて黒い/ひとはくるまに立つて行く/もうけつしてさびしくはない/なんべんさびしくないと云つたとこで/またさびしくなるのはきまつてゐる/けれどもここはこれでいいのだ/すべてさびしさと悲傷とを焚いて/ひとは透明な軌道をすすむ/ラリツクス ラリツクス いよいよ青く/雲はますます縮れてひかり/わたくしはかつきりみちをまがる

 

とても哲学的で深遠な詩句です。解釈しようとすると、どんどん賢治の真意からそれていきそうです。ただ、理想と現実の両方が私たち生きる世界には存在し、それを受け入れ進んで行くしかないという、修羅としての賢治の決意を感じればそれで良いように私には思えます。「ラリックス」とはカラマツ(落葉松)のことです。でも「カラマツ カラマツ いよいよ青く」と詠ったのでは、「かっきりみちをまがる」ことはできませんね。ラリックスと叫び、かっきりと道を曲がり、彼は現実の世界に戻って行ったのです。

 

賢治の心象スケッチの形式には、2種類あるように思われます。ひとつはとめどなくあふれてくる言葉を書き留めたモノローグ風のもの、もう一つは心の中に投影された自然の表象をさっとスケッチしたような作品です。前者には、「真空溶媒」のように異空間での出来事を述べた幻想性の強い作品と、「小岩井農場」のように実際の出来事をベースに書き進めた作品があります。しかし、現実の歩行をベースにしながらも、彼の心の中には様々な幻視や想念が渦巻いてきて、それを心象スケッチとして自動記述していきます。そこには定型的な詩の形式も、ストーリーもなく、つぶやきと幻想と思索が交錯し、終わることのないような時間が持続していきます。我々はこの詩を読み、賢治の内心に交錯していたつぶやきを自分のものとすることにより、1933年に死んだこの詩人の、1922年の心象を追体験することとなります。私は何度もこの詩を読んでいると、前世で101年前の5月に小岩井農場を賢治の後から歩いたような気がしてきました。

 

今回小岩井農場を訪れた日は、朝のうちは曇っていたのですが、農場に着いた頃には岩手山が見えてきました。右の山すそにはなだらかな二つこぶの鞍掛山も見えました。

賢治には「岩手山」(1922.6.27)という、まさに心の中に投影された自然の表象をさっとスケッチした、すてきな作品があります。でも、よく読むと不思議な詩です。

 

そらの散乱反射のなかに

古ぼけて黒くゑぐるもの

ひかりの微塵系列の底に

きたなくしろく澱むもの

 

賢治が愛し、友や家族とともに何度も登った山なのですが、「古ぼけて黒」いとか、「きたなくしろく澱むもの」とけなしているのです。彼はなぜか世界を心象の中に取り込むと、水中のように表現することがあります。「小岩井農場」の冒頭にも、「砂糖水の中の/つめたく明るい待合室」という表現がありました。「青森挽歌」でも「こんなやみよののはらのなかをゆくときは/客車のまどはみんな水族館の窓になる」、「こんな車室いつぱいの液体のなかで」という記述があります。この「岩手山」という心象スケッチでは、巨大な岩手山を心の中の水槽に閉じ込め、愛するゆえにからかって見ているようなところがあります。そんなことを考えながら改めて雄大岩手山を見上げると、不思議に親しみを感じました。

 

小岩井農場の東側の上丸地区には、賢治の詩碑があります。でも、今回は熊が出たということで立ち入り禁止になっていました。今年は異常気象のせいか山のドングリが不作で、熊たちが冬眠前に里に出てきているようです。異常気象ばかりか、世界のあちこちでは戦争が起こり、熊も人間も生きにくい時代になりました。熊の出ない時期にまた来ることにして、小岩井農場をあとにしました。

 

参考文献・出典

宮沢賢治全集1』ちくま文庫

『定本 宮澤賢治語彙辞典』原子朗 筑摩書房

宮沢賢治の真実』今野勉 新潮文庫

『図説 宮沢賢治』上田哲他 河出書房新社