宮沢賢治の2つの謎

自作の詩や童話を「心象スケッチ」と呼んだ真の目的と、日蓮宗(国柱会)への改宗の謎を考えます。

種山ケ原と「風の又三郎」

 東北砕石工場をあとにして車で1時間ほどひたすら山道を走り、曲がりくねったけわしい坂道を登りきると視界が開け、種山ヶ原に着きました。賢治は1917(大正6)年の夏、農林学校の同級生たちと地質調査に訪れて気に入り、短歌や童話や劇や詩に取り上げています。そのとき彼らは、岩手軽便鉄道の駅があった岩谷堂町から歩いてやってきており、同町から親友保坂嘉内に宛てた同年8月28日付の葉書に、「今日当地に来ました。あしたから十日ばかり歩きます」と記しています。こんな山深いところを歩き回ったこの頃の賢治の体力と、地質調査への情熱に改めて感心しました。

 私にとっての種山ヶ原は「風の又三郎」の舞台となった場所として、是非行きたいと思っていたところです。中村晋也(文化勲章受章者)の彫刻「風の又三郎像」(1996年建立)が、出迎えてくれました。

 以前書いたように「風の又三郎」には二つの作品があり、1作目は地球の大気循環に乗ってダイナミックに飛び回る風の妖精、2作目は北海道から山の小学校に転校してきた高田三郎という不思議な少年が主人公です。原題は両作品とも「風又三郎」なのですが、全集では2作目を「風又三郎」として区別しています。又三郎の容姿を、1作目では「変てこな鼠色のマントを着て水晶かガラスか、とにかくきれいなすきとほった沓をはいていました。それに顔と云ったら、まるで熟した苹果(りんご)のやう殊に眼はまん円でまっくろなのでした」とありますので、この像のモデルは妖精の方の又三郎なのでしょう。

  種山ヶ原は江戸時代から馬の放牧地になっているところだそうで、その後は夏の間だけ牛が放牧されるようになり、現在は「種山高原 星座の森」というキャンプ場もあります。

 種山ヶ原は、賢治の作品の中では人里離れたちょっと恐ろしいところとして描かれています。「さるのこしかけ」という童話では、人の言葉をしゃべる小猿の大将に連れてこられた少年楢夫が「種山ヶ原?とんでもないところに来たな」と言っています。また、「風の又三郎」の先駆形とされる「種山ヶ原」という童話では、牛を追って迷った少年達治が悪夢のような世界に迷い込み命を落としかけます。「風の又三郎」には種山ヶ原という地名は出てきませんが、転校生の高田三郎を先生が「お父さんはこんど会社のご用で上の野原の入り口においでになってゐられるのです」と生徒たちに紹介しています。童話「種山ヶ原」には種山ヶ原のことを指して上の原と記されていますので、「風の又三郎」の舞台も種山ヶ原とその下の村が想定されていると思われます。また、賢治は農学校の教員だったころ、生徒たちに演じさせるために「種山ヶ原の夜」という劇を書いています。主人公の青年は種山ヶ原で夢を見て、楢や柏の木の精霊(樹霊)や雷神に出会います。樹を切ってはいけないという樹霊たちと、切らなければ炭焼きができないというやりとりが不思議に深刻にならずに交わされています。これらの作品では、種山ヶ原はまるで異界への入り口であるかのように描かれています。

 しかし、私が行った日は天気が良く、広々として明るい野原が広がっていて開放的な気分になりました。異界への入り口というより、種山ヶ原全体が天上の世界のように感じました。以前書いたように、賢治は草木にも魂があるとした天台本覚思想をさらに拡張して、山川にも魂があると友への手紙に書いた人です。この世界とは別に異界があるというより、世界そのものの存在に神秘を感じていたのではないでしょうか。賢治とは全く関係がない人物ですが、ほぼ同時代を生きた哲学者ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の中で次のように述べています。

神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。

永遠の相のもとに世界を捉えるとは、世界を全体として――限界づけられた全体として――捉えることにほかならない。限界づけられた全体として世界を感じること、ここに神秘がある。

 科学が進めば、「世界がいかにあるか」はわかっていくことでしょう。しかし、「世界があるというそのこと」は永遠の謎であり神秘であるということは、現代論理学の基礎を作った一人であるウィトゲンシュタインには自明だったのでしょう。そして彼は「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」と書く一方、講演や手紙では「語りえないものこそ大切なのだ」とも言っているのです。このあたり、『銀河鉄道の夜』の第4次稿で深遠な思想を語るブルカニロ博士を退場させ、饒舌な心象スケッチから寡黙な文語詩に転じた晩年の賢治の変化を考える参考になるかもしれません。

 種山ヶ原をあとにしようとしたら、上空をジェット戦闘機(?)が飛んでいき飛行機雲が伸びていました。それを追って、又三郎はまさに飛び立とうとしているかのようでした。

 棚山が原を車で下っていくと、「道の駅種山ヶ原『ぽらん』」の脇に大きな賢治の詩碑がありました。

 彫られているのは『春と修羅第二集」にある「種山ヶ原」ですが、私が気になったのはこの巨岩の圧倒的な存在感でした。脇の解説プレートを読むと、この地を舞台とした賢治の短編小説「泉ある家」の冒頭で、登場人物が標本として石英斑岩のかけらを取ったとの記述があることから、この地で発掘されたその巨岩を碑石としたとのことでした。種山ヶ原を含む北上山地古生代から中生代の古い地層で形成されており、そういえば「石と賢治のミュージアム」にも三葉虫アンモナイトの化石が展示されていました。

 詩碑の解説には、この作品の先駆形Aの一部が引用されており、私が今日感じたことはこの一文に尽くされていると思いました。

 画像では見えにくいので、先駆形Aの当該部分を引用して今日のブログを終えることとします。上記のウィトゲンシュタインの引用文と呼応しているように感じるのは、私だけでしょうか。

雲が風と水と虚空と光の核の塵でなりたつときに

風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され

じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で

それをわたくしが感ずることは

 水や光や風全体がわたくしなのだ

   ・・・・峰はどいつもみんなちいさなオルガンだ・・・・

出典・参考文献
・『宮沢賢治全集1,5、7,8,9』ちくま文庫

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考野矢茂樹訳、岩波文庫