宮沢賢治の2つの謎

自作の詩や童話を「心象スケッチ」と呼んだ真の目的と、日蓮宗(国柱会)への改宗の謎を考えます。

雨ニモマケズの詩碑と「業の花びら」

宮沢賢治の『春と修羅 第二集』に、「業(ごう)の花びら」という作品があります。

 

夜の湿気と風がさびしくいりまじり

松ややなぎの林はくろく

そらには暗い業の花びらがいっぱいで

わたくしは神々の名を録したことから

はげしく寒くふるへてゐる

 1924年10月5日の日付のある作品です。この年4月に『春と修羅』を、12月には『注文の多い料理店』を出版し、健康にも恵まれ賢治が一番意気盛んな頃だったのですが、なぜか暗く悲しく、しかも美しい作品です。花巻市の郊外に「雨ニモマケズ」の詩碑がありますが、当初この詩碑には「業の花びら」が刻まれる可能性がありました。

雨ニモマケズ詩碑

 その間の事情を、詩碑建立委員会の委員長であり、賢治やトシの主治医であった佐藤隆房が次のように書き残しています。

ここでどの詩を選ぶべきかが大きな問題となりました。盛岡の賢治の会では「業の花びら」が最も良いと主張し、佐藤らは「業の花びら」は詩としてわるいものではないが、難解の点もありますので、詩人ばかりでなく一般の人にもわかりやすい詩が望ましい、と思いました。この時、賢治さんの父の政次郎さんは、手帳にかきつけてあった「雨ニモマケズ」がよいというのです。・・・佐藤は政次郎さんの説明に深い共感を覚え、個人としてもまた建設委員長としても、この「雨ニモマケズ」が最適だと主張しました。

 ところが、この記述と正反対の証言を、賢治の研究家で政次郎と親交のあった小倉豊文が残しています。

羅須地人協会跡の詩碑も同じであって、あれを建てるときの碑文の選定の際、翁(政次郎)は「業の花びら」をすすめたが、難しいというので「雨ニモマケズ」になってしまったとのことであった。もし「業の花びら」が詩碑に刻まれたら、賢治は今のように一般にうすっぺらな騒がれ方をせず、本当の意味の真面目が人々の心にしずかにしみ込んでいったのではないだろうか。

 小倉は「雨ニモマケズ」を賢治の個人的な祈りであり、作品として評価できるものではないという見解ですので多少バイアスはかかっているでしょうが、政次郎の発言を聞き違えることはないでしょう。佐藤の言う「盛岡の賢治の会」とは、おそらく森佐一らを中心とする詩人たちのグループのことで、詩として完成度の高い「業の花びら」を推したのでしょう。それに対し、佐藤ら花巻在住の人々は農学校の教師や羅須地人協会活動、農民のための肥料設計活動を行った農業改革者としての賢治のイメージが強く、「雨ニモマケズ」により共感していたのでしょう。彼らに対し、東京で賢治の死の翌年に結成された「宮沢賢治友の会」の高村光太郎谷川徹三らは「雨ニモマケズ」を推し、光太郎自身が詩碑の文字を刻んでいます。東京の人々から見れば賢治は農村に住む求道者のイメージが強かったのでしょう。要するに三者三様の異なる賢治像が、あの詩碑には隠れているのです。

 それでは、政次郎の真意はどこにあったのでしょうか。彼は浄土真宗大谷派の僧であり宗教哲学者であった清沢満之に傾倒し、その弟子である暁烏敏(あけがらすはや、後に真宗大谷派宗務総長)らと生涯親交を結んでいました。賢治やトシに幼いころから宗教教育を行いましたが、家の宗教を慣習的に子供らに押し付けることはしませんでした。賢治に浄土真宗聖典には入っていない法華経(島地大等編『漢和対象妙法蓮華経』)を渡したのは彼ですし、トシを当時唯一の女子大であり、キリスト教の元牧師であった成瀬仁蔵が創立した日本女子大学に進ませたのも政次郎でした。自分も求めた宗教や哲学の道を、優秀な兄妹に自由に歩ませようとしたのです。その一方、花巻で幅広く実業を営む宮沢一族の一員でもある政次郎は、実際的な人間でもありました。それを示すおもしろいエピソードを、堀尾青史が伝えています。

(政次郎は)生前長く民生委員、調停委員をつとめ、八百件もの紛争をまとめて藍綬褒章をうけている。筆者がその秘訣をきくと、「なあに、おたがいにいいたいことはいわすだけです。いうだけいえばわかりあってそれでおしまい。わたしはだまってきいているだけ、なんにもいうことはない」と笑っていた。

 これは、賢治の「雨ニモマケズ」にある「北ニケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ」という言葉とは対照的です。政次郎に言わせれば「ケンカをしている当事者に、つまらないからやめろというのはかえって火に油を注ぐようなものだ。当事者たちは決してつまらないことをしていると思っていないからこそ、ケンカをしているのだ」ということになるのでしょう。

 そんな、宗教思想の探究者と実際的な実業家の両面を持っていた政次郎からすれば、前者の立場からは「業の花びら」、後者の立場からなら「雨ニモマケズ」という選択になったのでしょう。当時、賢治の作品を世に残したいと念願し、死の翌年に文圃堂版『宮沢賢治全集』の刊行を始めた彼にとっては、多くの人に受け入れやすい後者を選択するしかなかったのでしょう。しかし、本当は「業の花びら」の方が賢治の思想を表すのにはふさわしいという思いがあり、それを小倉に吐露したのだと思います。

 それでは、「業の花びら」とはそもそも何なのでしょうか。賢治は、「二十六夜」という童話の中で、梟の坊さんが梟たちに行う説法という形を借りて、「業」について説明しています。

悪業というは、悪は悪いじゃ、業とは梵語でカルマというて、すべて過去になしたることのまだ報となってあらわれぬを業という、善業悪業あるじゃ。ここでは悪業という。

岩手県立博物館で撮影

 梟は肉食の鳥です。他の鳥や虫を殺して食べることによって生きているので、宿命的に悪業を積んでいるのだと坊さんの梟は説きます。その説法の翌日、おとなしい子供の梟の穂吉が人間の子供たちにつかまり、その後放されますが足を折られた傷がもとで死の床についてしまいます。梟たちは人間たちに復讐すべく、燃えている藁を使って人間たちの家の屋根に放火しようと息巻きますが、それでは復讐と悪業の連鎖が生じると梟の坊さんが止めます。そうしているうちに、「二十六夜の金いろの鎌の形のお月様」の先から噴き出た紫色の雲に乗って「金色の立派な人」が三人現れ、その姿が消えた時に穂吉は「かすかに笑ったまま、息がなくなっていました」というお話です。これは、浄土思想の仏画における「阿弥陀三尊来迎図」を連想させます。

阿弥陀如来像」福島・いわき市重要文化財東京国立博物館にて撮影

 以前、「ひかりの素足」の回で述べたように、賢治は国柱会に入会後終生日蓮宗に帰依していましたが、子供のころから家の宗教として親しみ父から学んだ浄土教のイメージから脱することはなかったようです。日蓮は激しく浄土宗を攻撃し、若いころの賢治も父を懸命に日蓮宗に改宗させようとしました。しかし、農学校退職後は「銀河鉄道の夜 第三次稿」でブルカニロ博士に、「みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう」と言わせたように、他者の宗教に寛容になりました。

 なお、「二十六夜」のモデルとなった場所は、岩手県一関市にあって東北砕石工場からも近い、北上川の支流の砂鉄川の渓谷である猊鼻渓(げいびけい)とする説があります。次の写真は猊鼻渓に行ったときに撮ったものですが、夜になれば梟や蝙蝠が出てきてもおかしくない雰囲気でした。それでいて、崖の上には人家があるのです。子供たちが梟をつかまえたこともあったかもしれません。

猊鼻渓

 「二十六夜」の冒頭には、「北上川の水は黒の寒天よりももっとなめらかにすべり獅子鼻は微かな星のあかりの底にまっくろに突き出ていました」とありますが、確かに猊鼻渓には「獅子ケ鼻」という岩がありました。もっとも、舟下りの船頭さんに言われなければ気が付きませんでしたが。

猊鼻渓にある獅子ケ鼻 丸を付けた部分が獅子の鼻に似ている?

 「業の花びら」は、たった5行の作品ですが、下書き(先駆形A)は20行あって、しかも「あまりに世界は歪んでいる」という言葉を含む370字ほどの挿入箇所不明のメモがついています。また、同じ日付の「産業組合青年会」という作品では、部落の産業組合に出席した賢治が口論に巻き込まれ苦悩した可能性が推測されます。しかし、それらのことはすべて完成稿の5行の中に昇華されています。賢治の心象スケッチは賢治個人の心象の記録ですが、それは読み手によって自分の心として受け止められ、普遍化されるべきものと彼は考えていたのでしょう。政次郎もまた、「業の花びら」を読んだとき、才能に恵まれながら苦悩し夭折したトシと賢治のことを思ったのではないでしょうか。彼にとって空いっぱいの「業の花びら」は、トシと賢治を象徴するものだったように思われます。「二十六夜」の子供の梟穂吉のように、死んだ二人は業の連鎖(因果応報)から解き放たれたと信じたかったに違いありません。

 私は中学生のころ「春と修羅」を読んで、難しくて理解不能のところもありながらとても感動しました。その頃、賢治は私にとって教師のような存在でした。しかし、彼が死んだ歳をだいぶ越えてしまった今となると、彼の父政次郎に共感を覚えています。政次郎にとって賢治もトシも自分の願いを込めた作品であり、自分を超えてどこまでも飛んで行って欲しい存在だったはずです。

 その政次郎は1951年77歳の時に、先祖代々の浄土真宗から、賢治とトシのあとを追って日蓮宗に改宗します。このブログのテーマの一つである賢治改宗の謎を解くには、政次郎の改宗が大きなヒントになると思います。次回はそのことを考えることとします。

 

出典・参考文献

・『宮沢賢治全集1,5』ちくま文庫

佐藤隆房『宮沢賢治』富山房

・小倉豊文「二つのブラックボックス」『宮沢賢治の宗教世界』所収 北辰堂

・米村みゆき『宮沢賢治を創った男たち』青弓社

・堀尾青司『年譜宮沢賢治伝』中公文庫